元より千人の男の数、恐らく当の本人ですら記憶してゐぬほど、それを片端から書くことも出来なければ、又それを克明に書く必要も無いので大略にするが、かうした星の数ほど多い男り中で、三草子の方から命まで打込んだのは八丁堀の与力で吉田駒次郎といふ利者であつた。幕府時代の与力と云へば、それは中々幅の利いたもので、今日の警察署長以上に恐れられてゐたのである。黒縮緬の羽織で細身の大小落し差し、朱総銀磨きの十手を前半に挟み、突き袖に雪駄穿き、手付の者を連れて出て歩く様子は絵にあるやうな姿であった。殊に吉田駒次郎は美男の上に苦労人、それが吉原稲本楼の全盛小稲と云ふに現をぬかして通ひ詰め、小稲の方でも、古いやつだが否にはあらぬ稲舟のと云ふ寸法で、これが血道をあげて喚び通す、双方とも惚れ合つてゐる仲を三草子が計略を以て両人の間を割き、場所もあらうに桜時の仲の町で、芸妓と花魁の鞘当をするなど、三草子一代の華々しい恋の達引もあつた。更に事実か否かは断定しかねるが、安田銀行の創立者であつた初代の安田善次郎翁とも関係があつたと伝へられてゐる。
此の外、維新の風雪に乗じた志士やら論客やら、町人に俳優に、階級の何たると職業の何たるとを問はぬ千客万来、三草子と三度逢つた者で、彼が慈悲に浴せぬ者は無かつたと云はれてゐる。