七(三草子が容堂公に愛されてゐることが…)

三草子が容堂公に愛されてゐることが、世上に知れ渡ると、ここに「それなれば山内の掌中の珠を棄つてやれ」と醉興にも横合から手を出した者がある。それは容堂公と同じやうに豪遊をした松平確堂公である。

然に三草子が恋の相手として艶名を大川に流したのは、水戸の浪士武田耕雲斉であつた。当時、耕雲斉はまだ伊賀守と云うた時代で専ら志士の間に奔走してゐた頃であるが、両人の関係に就いては伝ふべき逸話が残つてゐる。

三草子は利かぬ気の江戸ッ児である上に、容堂や確堂のやうな有力な保護者があつたので、収入の多かつた為めに盛んに金銭を散じ好んで奇嬌な事をやつたので、その侠名は深川は言ふまでもなく、江戸心中し響いてゐた。殊に幕末になつてからは天下の雲行が急になつたので国士とが志士とか云ふ者か横行し、かなり物騒を極めて辻斬り果し合の剣戟沙汰も少くなかつた。そこで三草子は是等の風潮につり込まれ、且つは一種の売名手段として女だてらに乗場を本所榛の木馬場の草苅道場に学び、剣術は深川仲町の千葉氏に稽古し、或時は春風に駿馬の鬣を梳づつて、白鳥金鞍の貴公子と共に塁堤の花を詠み、或時は壮士の間に交つて嬌舌に国事を談ずと云ふやうな事があつたので、伊賀守と三草子とは単に酒席ばかりでなく、さうした会合でも顔見如りの仲であつた。

それが或日の事、当時、深川一と云はれた料理屋の平清から伊賀守は三草子を伴ひ、八幡の河岸から家根船に棹し、月明に乗じて中洲へ出た。絃歌水に湧き、紅燈川に映じ、●(舟に右)は緩く軋つて船は河心を溯る。彼れ一杯、吾れ一杯、玉山漸く崩れんとするころ、時分はよしと伊賀守は、手にした盃を下に置き、三草子に向つて詞を改めて言ふには、

「其方も薄々小耳にはさむだであらうが、今回、我々の同志が集つて義兵を挙げ、筑波山に立て籠つて勤王の旗風に天下の眠りを覚さうと企てた。就いては近頃迷惑の事とは思ふが、身共と一所に筑波まで往つてくれぬか」にとの事であつた。

三草子も水戸家が、結城派と藤田派の二つに分れ、その藤田派に属する伊賀守が中心となつて「天狗党」を造つてゐることは、内々世間の噂からでも知らぬではなかつたが、今その天狗党の主領である伊賀守から、かうした相談を受けようとは夢にも思つてはゐなかつた。

物に動ぜぬ三草子は、狭い船の中ではあるが、居ずまひを直して、

「思召は有難う存しよすが、私には年老いた母がありますので、私が筑波とやらへ参りまして、御国の為めとは云ひ、万一死ぬやうな事がありますと、母に苦労をかけねばなりませぬ。忠義も大切では御座りますが、孝行の道にそむくことも出来ませぬ」ときッぱり断り言ふと共に、懐中から延紙をとり出し、嗜の慎硯をすり流して、それへ左の短歌一首をしるして、伊賀守の前へ差し置いた。

たらちねの親の許しし敷島の

道より外の道や行くべき

伊賀は懐紙には目もくれず「かく大事を明かした上は、是か非でも筑波へ連れて往く。たつて厭と言ふのなら、その分には棄て置かぬ」と、白刄を擬して三草子に詰めよつた。此の光景に艫に艪を採つてゐた船頭は、どうなるかと唾を呑んだ。