六(文雄の此の不行跡は、侠気に富んだ三草子…)

文雄の此の不行跡は、侠気に富んだ三草子の敵愾心を、尠なからず刺激した。そして其の結果は、俗に言ふ「先がさうなら此方もかうだ」の自棄気味となり、殊に稼業が芸妓であるだけに、意地も強く張りもあり、文雄への面当てに、誘ふ水あらば身を浮草の根を断えて、ひそかに相手を物色し始めたが、その白羽の矢は誰あらう、土州二十四万石の太守であつた山内容堂公の胸元にぐさとばかり射込んだのである。

容堂公の豪奢と寛潤は、徳川期の三百年を通じ、三百の候伯中でも稀し見るところであつて、自から鯨海醉候と称し、吉原へ花魁買にも往けば、柳橋へ芸妓買にも出かける。芝居へ一人で往つて平土間で見物し、帰邸してから「今日は町人に三度天窓を跨がれたが、二十四万石の天窓を跨ぐとは、大きな股だな」と云つて笑つてゐるほどの砕けかた。此の容堂公の逸事を書くと際限もないが、幕末から明治へかけ、当時の大官や名士が、如何に淫蕩に溺れてゐたか、その一端を示すとする。

明治元年、官軍が江戸へ入府して、諸大名の屋敷に屯営中、徒然でゐるのを見て、三味ひきの女太夫は、毎日、屋敷の長屋の窓下に立つて三味を弾いて、銭をもらふことが多かつたが、当時、官兵はひもじい時のまづい物なしと云ふ時だがら、少し渋皮の剥けた女太夫をば、長屋へ引入れて姦淫した者も沢山あつた。それから又官兵が飲食店などで乱暴するときは、亭主が出て鎮めようとすると益々暴れたが、女が出て止めると忽ら鎮まつた。そこで利に敏い輩は、何でも女でなければ成らないと見すかしたから、都下一般申合はしたやうに淫風が猖んになつて来た。明治二三年頃には木戸孝允、大久保利通、西郷隆盛等を始め、当時、羽振りのいい輩は大概吉原に放蕩しない者は無いくらゐで、大名でも山内容堂公などは、遊女に錺り夜具やら、突き出しの仕着せやら、大した金を遣つて、大びらに遊んでゐた。

斯ういふ風だつたから、吉原の金瓶楼では能舞台を新築して、全盛の遊女今紫、小太夫、静、西施の四人に歌舞させて客を取つた。そして其の代金は十四両であつた。当時金廻りのいい者は遊女を買ひ、卑官少給の者は荼屋小屋、楊弓場、湯屋の二階などで遊んだから、皆競つて妙齢の女を抱へた。また夏季になると、辻々広小路などに麦湯や甘酒の看板をかけ、腰掛をならべて薄暗い燈火のかげで、妙齢の女が客をとつたのも猖んであつた。(近世百ものがたり)

それであるから容堂公の、日本橋箱崎町の下屋敷には、常に諸芸人の出入が絶えず、俳優では市川団十郎及び五代目尾上菊五郎、相撲には両国梶之助、書家の服部波山、義太夫語りの竹本綾瀬太夫等を主なる者とにて、此の外に詩人に歌人に俳人に、荀くも文人で候芸人で候と名のついた者で、すこし目立つた者で公の贔屓に預からぬ者は、無いと云うても差支ないほどである。況んや嬌名噴々として辰巳の秋坊を圧した三草子の小さん、何として醉侯を逸すべけんや、落花既に情あり流水豈情なからんや、柳橋のお愛と共に、公の両手の花と詠められたのは、それから間もないことであつた。