井上文雄、彼は歌人と云ふより幇間と云ふ方が当つてゐる。尤も当時の歌人や俳人の多い部分は、生活の必要から斯くするの止むを得ぬものがあつたが、殊に彼の不行跡には眉をひそめねばならぬ事が多い。
万延元年と云へば、大老の井伊掃部頭が、桜田門外で輿を血で染めた国事多端の際で、かれ文雄も六十の坂を越した老人であるにも拘はもず、雀百まで踊りを忘れず、猶ほ悪場所通ひが止まず、殊に深川仲町の甲子楼のお職女郎であつた唐土と云ふに、馴染を重ねてゐた。ところが此の唐土は、岡場所の女郎でこそあれ、多少とも和歌の道に嗜みがあつたので、嫖客として遊びに来た文雄を師匠と仰ぐと云ふ大騒ぎ。文雄もぐッと若返つて、
「荀くも、敷島の道に心を寄するほどの者が、唐土と名乗るのは面白くない。いつそ大和と改名しろ」
と、油をかけると、それでは師匠への心中立とその日から源氏名を大和と改め、今までの白縮緬に墨絵で虎を書いた裲襠を脱ぎ棄て、新たに大和撫子を金糸で縫うた座敷衣を着て、楼中へ改名の披露にと対の仕着を配るなど、文雄のために年期を増しての逆せかた、文雄もそれにほだされて間がな隙がな入浸り、年も身分も忘れて鼻毛をのばしてゐたのである。