四(これから三草子の千人信心の本筋…)

これから三草子の千人信心の本筋に入るのであるが、その第一着を射とめた者は幕末の歌人として文名を馳せてゐた井上文雄である。文雄は歌人と云ふものの、同じ徳川期に出た賀茂真淵とか香川景樹などにくらべれば、全く月の前の星で、物のかずでは無いのであるが、黒船騒ぎで世間が混雑してゐた時分としては、先づ指を折られる方の一人であつた。

文雄は歌人とにて世に立つてゐたが、当時の習ひとして大名が歌人を召抱へる場合には、表むきは医師と云ふことになつてゐたので、文雄も学問好きの田安家へ、典薬として奉公することになつた。然るに文雄は、天地を動かし鬼神を泣かせるやうな歌などは作れぬが、生れつきの好男子で、今業平とまで綽名されてゐた。その後に田安家を致仕して町住居の歌読みとなり、専ら花鳥風月の吟詠に身を委ねてゐたが、その門人は作歌の方よりは男前を慕ふ女が多く、殊に田安家の奥女中などは、旧縁をたどつて文雄に近づく手段として歌の稽古に来る者が多く、女子関係ではかなり鼻持のならぬ噂が多かつたのである。

三草子もその初めは、好める道とて真面目に文雄の弟子となつて、詠歌のことに精進したのであらうが、そこは小町と業平、四歌仙が皆小便に往く跡でと、蜀山人が喝破したやうに、いつか狂峰が楳となり、恋せずば人に情はなからまじ、物のあはれもこれよりぞ知ると、歌の文句を実地に遣る仲々となつてしまつた。これから三草子の活舞台が開かれるのである。