徳川幕府の世帯廻しは、文化文政の大御所様時代から、天保に世が降つて来るに従ひ、どうにもかうにも遣繰がつかぬ程の破目に陥つてしまつた。賢相の白河楽翁が、雪隠の戸は半分で済ませろ、犢鼻褌は三尺にしろと絶叫した、前代未聞の勤倹政策も、徒らに文武と云うて夜も寝られぬ蚊と譬へられ、纔に越中褌に名残りを留めたに過ぎなかった。
これに代つて水野越前守が執政となるや、八百万石の家台骨が大俄多つきに俄多つくので、拠るなく無い袖は振れず、窮鼠が猫を噛む室町期の御徳政に倣ひ、御趣意と云ふ天下一切の貸し借りを棒に 引く乱暴この上なき命令を発した。此の暴令に会うては誰も彼も相当の生活をしてゐる者は困難したのであるが、その中でも三草子の家は、これが為めに資産の元も子も飛ばしてにまひ、一夜ににて窮 乏のどん底へ突き落されてしまつた。これに加ふるに三草子の兄が、徳川末期に通有な極道者で、それこそ箸にも棒にもかからぬ放蕩を尽したので、忽ち例産するの悲境に陥つた。
然るに三草子の不幸は、ひとりこれに止まらず、母の重病、家の出火、父の死亡と、世にありとあらゆる災難が、足早に次から次へと押し寄せるのであつた。それやこれやで三草子は池田家に奉公もしては居られず、実家へ帰つて女の手一つで遣つては見たが、狂瀾の如き浮世の荒波を乗り切ることは思ひも寄らぬこと、遂に、
「斯うにて家中が餓死を待つより、身を棄ててこそ浮かむ瀬もあるとやら、いっそ芸妓になつて、此の難儀を救ひたい」と、愈々芸が身を助けるほどの不仕合せとなり、日本橋から小さんと名乗つて披露目をなし、昨日の御守殿姿に引替へて、今日は向うの岸に咲く、浮いた稼業をする身となり、幾程もなく深川古石場町に移つて、文久元年までは何事もなく、紅燈緑酒の間に面白をかしく日を送つてゐたが、これぞ三草子が倫落の淵に歩みを早めた第こ歩であつた。