家筋から云ふも、家庭から云ふも、三草子は美人で、然も貞淑でなければならぬ。然り三草子は絶世の美人であつた。妙齢の頃は、古い形容だが下谷の小町娘と噂されたほどの容色であつた。殊に何不自由なく乳母日傘で育てられ、両親が可愛さと自慢から琴よ舞よと女の心得べきことは、残りなく仕込んだので、貞淑の名も町内に高かつた。此のままで無事に送つたなら、三草子も千人信心の願を起さず、仇な浮名も歌はれずに済んだであらうに、寸善に尺魔の世とや、花を催すの雨は、翻て花を散らすの雨、三草子の万人に勝れた容色は、却つて三草子の殃となつた。それは三草子が十七の年に、さる高貴の方から緻形望みで嫁に貰はれることとなり、閏中の少婦は憂ひを知らず、いつも春のやうな気で暮してゐるうち、その年も変へず良人に死別し、涙と共に実家へ戻り、今度は母お菅の縁で因州鳥取の国守池田家の奥へ奉公に上ることとなつた。これぞ三草子が堕落の淵に歩みをすすめた第一歩である。佳人薄命とは昔も今も通り相場に変りはない。