千人の男に肌を許した女は、不思議の通力を得るとて、昔から好んで此の信願を果した者があると聞いてゐる。

由来、我国には千と云ふ数に対する不思議な俗信が伴つてゐる。福井県では一ヶ所の焼場で千人の屍体を焼くと、三昧太郎と云ふ亡霊が現はれて、夜中に拍子木をたたいたり踊つたりにて隠亡を苦しめ ると言ひ伝へてゐる。熊本県の猟師は自分の飼犬が、千頭の獲物を取らせると、主人に仇をするとて九百九十九頭で飼犬を殺してしまふ。併に良く働いてくれた猟犬を殺すのであるから、その祟りを恐れて犬塚を建て供養する。更に山形県の海辺では鰹を千本とると、昔は鰹供養の卒都婆を建てたと言ふことである。

斯うした俗信は、詮索したらまだ何程でもあることと思ふが、兎し角此の乏にき類例から推すも、千と云ふ数が不思議な力を以て見られてゐたことは明白である。私がここに記す千人信心は斯うした古い俗信からは全く離れてしまつて単なる好奇心から源平藤橘の嫌ひなく、千人の男子を征服した女子の、然も一人ならず二人まで在つた事を知つてゐるので、その概略を述べる事としたのである。

大昔のことではあるが、恵美押勝と云ふ大臣が反乱を企て、征討された後にその娘が千人の官兵に許したと物の本に記してあるのが、私の知つてゐるのはそんなし古い話ではなく、徳川期の終りから明治期の中ごろにかけて存した物語である。そにて此の願主は、一人は深川の芸妓で侠名を小さんと云ひ、後に女流歌人として知られた松の戸三草子、一人は下谷の芸妓で綽名を紋散らしのお玉と呼ばれた気負ひ者であつた。

三草子の祖父は小川惣兵衛と称に、元は京都嵯峨御所の家来であったが、文化の始め頃に仔細があつて江戸へ移住し、諸大名へ出入して御用を勤め、別に下谷仲町の名主の株を譲り受けて、これを倅の二代目惣兵衛(即ち三草子の父)に相続させて、何の不自由もなく暮してゐた。

二代目の惣兵衛も父の跡を継いで諸家の御用達を続けてゐるうちに、良縁があつて、その頃徳川幕府の作事方をしてゐた、辻内栄次郎の娘お菅と云ふを迎へて内室ににた。此のお菅は若い折から豊後岡の藩主中川家の奥向に奉公し、薫と呼ばれて常に才色の双美を以て、朋輩を圧してゐた美人であつた。三草子は京都趣味の惣兵術を父とし、御殿女中のお菅を母とし、天保四年に仲町の住宅に産声を挙げたのである。恰も世間では、一代の侠賊と云はれた鼠小僧次郎吉が、仕置された評判の高い頃であつた。