第一

父兄が我娘又は妹を直接に妓楼へ売つた例は、最も多く存してゐるが、これが身売り証文と契約とは、概ね左の如きものである。

奉公人御請状之事

一、私妹のぶと申す女当辰ノ拾八歳罷成今般御年貢上納企に指詰り、無拠飯売奉公ニ差出シ当辰ノ十二月ヨリ戌ノ十二月迄、勤年六年季ニ相定為身代正金拾参両慥ニ受取申候処実正明自也、衣束ノ儀ハ夏木綿単物冬木綿袷壱ツ宛年々御渡シ被下候筈也、御奉公之内 御公儀様御法度之儀ハ不及申上ニハ何ニ而モ御家之御作法相背セ申間敷候、当人我儘ニテ度々御厄介ニ相成不奉公仕候歟、又ハ取逃欠落等仕及遅滞候ハバ其年月向ヘ辺リ為相勤可申候、其訳ニヨリ御関所之内ハ何方エ奉公御替被下共少モ申分無御座候、勤申ニ妻ニ貰度卜申仁御度候ハバ当人得心御主人得心之上、相応ノ樽代金御取被成何方ヘ御縁付被成候共少モ申様無御座候、勤中ニ借金仕致迎済兼候節ハ年明ニ至リ当人卜御相対ノ上何年御□為勤被下共致シ方無御座候、万々病死頓死等仕バ御家之於御菩提寺御式法ニ御取置被下遠路ニ候得バ其訳後日幸便ニ而御知セ可被下候事

一、宗旨之儀ハ代々仏光寺浄土買宗ニ而矢作村法円寺且那ニ紛無御座候、若シ此奉公人ニ付脇脇ヨリ故障之儀致出来候バ、加判之モノ何国迄モ罷出早速●(つちへんに孚)明毛頭其元エ御難渋掛申可致候、致為後日証文如件(瀧川政治氏所蔵文書)。

越後国蒲原郡村上領佐善村

文化五辰年十二月 兄 置主 佐共衛(判)

同村 受人 七郎右衛門(判)

奉公 人のぶ(判)

信州中山道筋塩尻宿

おもだかや

喜多右衛門殿

和泉屋久助殿

娼婦の身売り証文は、その時代と地方とにより、多少の繁簡精粗はあるが、要するに一種の形式があつて、殆んど全国とも共通の文体になつてしまひ、契約の事項その他に就いても、特に注解すべき必要なき迄に有り触れたものになつてしまつたが、その中でも「御年貢上納に差詰り」の一句だけは、必ず挿入することになつてゐた。これは教化主義によつて人身売買を禁止した手前としても、欠くことの出来ぬ焦点であつた。三重県の関宿では宿法として此の一句を書き落すと、その証文は無効だと伝へてゐる。更に契約の過酷なることは改めて言ふまでもないので省略する。