六、江戸時代

江戸幕府は儒学の教化主義を以て、治国平天下の根本方針としたが、これを行ふに武断政治であつた為めに、国民は依然として搾取さるるばかりで困窮をつづけ、人身売買の如きも前代を承けて少しも渝るところなく行はれた。併しながら幕府の威令が隆んであつたので制限が加へられて来て、形式にも内容にも大いに矯正さるる所があつた。幕府では元和五年二月に左の如き法令を発して、人身売買停止の第一声を挙げた。

人身売買一切停止たる事、若し猥りの輩有レ之ば、其科の軽重をわかち、死罪、牢舎、過怠たるべき事、付り、口入宿主同罪之事。

人身売買を以て斬死の極刑を適用することは、全く前代未聞であつて、我が人身売買史上に特筆すべきことであるが、果して此の極刑が実行されたか否か明白でない。恐らく武断政治に通有なる威嚇ではなかつたらうか。そして幕府では更に同年十二月に左の如き布告をした。

人を勾引し売候者死罪、人を買取りそれより先々へ売候者百日の牢舎、人の売買口入の儀、勾引し売候時口入、可レ為二死罪一、若又譜代家の子以下の口入は、其品を分ち、牢介又は可レ為二過怠一事、長年季の事御停止の上、自然濫りの輩有レ之ば、其者の分限に依り過料たるべし(以上。東武実録)

斯く重刑を以て違犯者に臨み、更に正徳元年の高札にも、御定書百ヶ条にも規定して厳しく制禁するところがあつたので、露骨に人身売買や勾引をする者は減じたが、その実質に於いては是等と殆んど相擇むなき不祥事が行はれてゐたのである。そして江戸初期に於いては如何に勾引、人買が猖んであつたかを知るべき資料として、慶長十七年?に公許遊廓の設置を請願した、庄司甚右街門の願書中の一項を挙げる事が出来る。勿論、許可を得んがために多少事実が誇張されてもゐやうが、大体に於いて信用すべきものと思ふ。

人を勾引候者の儀、前々より堅く御制禁に被遊候処、今以粗有之候、当時御府内においても人を拘引候程の不届者共有之候、其仔細は手前困窮成者の娘を養子と名づけ貰置、成長の後めかけ奉公又は遊女奉公に出し、大分金銀を取渡世に仕候、ヶ様成不届ものかなたこなたより、みめよき娘を五三人宛も養子に仕り、十四五歳に罷成候へば右の如く奉公に出し申候(中略)、ヶ様成不届者共は人を勾引候事も可レ仕様に奉存候、如レ此の訳をも乍二存知一、勾引者養子娘を相対にてけいせい奉公抱候もの有之候様に及レ承申候云々。(御府内備考巻二十)

そして当代に於ける人身売買は、女子にあつては十中の十まで娼婦であり、男子にあつては質奉公と称する農奴が多かつたのである。更に此の娼婦の身売りに就いても、凡そ三種に区別することが出来る。即ち第一は父兄が直接に妓楼へ売るもの、第二は父兄が女衒へ売り、女衒が後日随意に転売するもの、第三は養女の名儀で売るのがそれである。私は此の分類に従つて例を挙げようと思ふ。太田南畝の金曽木に「娼妓に女衒つき女衒なしと云ふ事あり、之は初め親より直に売りたるを女衒なしと云ふ、親より女衒を頼みて売りたるを女衒つきと云ふ云々。又よき娘持て貧しく募す者あれば、女衒ど も其親に金を貸し、此金滞るときは此娘をかりて土手の水茶屋に出し、其金を償はしむ。其時に「売まい証文」といふ券書を渡して、一切遊女に売る間敷と請合ふなり。親も慥かな事と思ひ、女衒に娘を頂け置くなり。然るに一年も立たぬに新吉原へ売るなり。彼親聞つけて証文持出て市令の庁に訴へれども取上なし。いかなれば己が養ふべき娘を人に養はせて、如何様の事有ても己が自由になすべき様なし」とあるのは、やや此の分類と同じものであろことを考へさせる。

江戸期に入つてもその初葉にあつては、農奴の永代売りが行はれたものである。勿論、質奉公もこれと併行してゐたのであるが、前者に就いては左の如きものがある。

売渡申むすめ之事

依有直用要、右之むすめ能米参石に永代をかぎりうり申候

則ひつじの年の年貢二斗申処実正也、則右の子永代に何様の儀仰付候共御任意、御奉公申さすべき者也、其時一言之子細申間布者也、仍永代の状如件(北川弥吉氏所蔵文書)

元和五年末年十一月十六日

三田村

与一郎

又十郎 殿参

永代売りでなく年限をきつて売る事も各地に行はれてゐた。そして此の方法は質奉公と殆んで渝る所が無い。強ひて言へば質奉公の以前に行はれたのではないかと思はれるが確証が無い。更に身代金に対する利子の有無を以て両者を区別する説があるやうに聞いてゐるが、腑に落ちぬ点がある。後考を俟つとする。そして年限を定めた身売りには左の如きものがある。

一、志田村辰ノ御年貢につまり庄太郎ふだいのけさと申候女身代として甲判弐両三朱借用仕、辰ノくれより末のくれまで三年きこうり置申候事実正也、此者に付はたれ人成□□分無何時もまかり出可申分候、自然をつとにをいて身代五わりそい金にて弁済申候、うせかくれあしき心など候はばたづね出し返し可申候、永見へ不申候はば有之同前に弁済可申候、御国かへ人返し如何様の親御仕置出来候共、右年きとをり御奉公つとめ可申候間、身代金弐両三朱すまし申候はば相違なく御いとま可被下候、右後日手形如件(樋畑雪湖氏所蔵文書)

寛永五たつ年十二月十二日

志田村 庄太朗(判)

八左衛門(判)

佐五右衛門(判)

五衛門(判)

坂田与市衛門様

坂田氏は甲府市の名族であるが、此の証文で注意すべき点は、(一)奉公中でも身代金に五割の利子を添へて弁済すれば、何時でも解放せらるること、(二)契約後に領主の国替、人返しと称する室町期の雇人解放の如き事が行はれても、買主に迷惑かけぬと損害賠償の予約をしたところである。人身を買ふほどの者でも人返しには手を焼いたものと見える。

各地の年限つきの人身売買を挙げることは熕に堪へぬが、その代表的のものとして阿波国に就いて記述する。同国の農民階級及び種類は頗る多いが、下人を主人に売ること(永代又は年限つきで)は 極めて自由であつたやうである。左に同国三好郡池田町、及び那賀郡羽浦町の事例を抽出する。

明暦四年二月池田町棟付人改御帳

売人 池田商人喜右衛門子千菊

但し此者は午の年より六年切に布屋利右衛門に売申候

買人 池田町島屋甚兵衛ろくしやく(島屋は酒屋なり)権蔵

但し此者は貞光村に三兵衛と申す者の身五年切に本銀返しに手束文右衛門より買申候

下人は賎民にして主家の為めには牛馬の如く駆使せられ、時には売買せられても異議を唱ふること能はざりしなり(以上。池田町誌)。

明暦四年古毛村棟付帳

壱家 百姓 長右衛門 歳 三十六

壱人 長右衛門下人 庄三郎 同二十

此者同郡之内清水村徳太夫方へ当壱ヶ年本米捨りに売り申候

延売二年宮倉村棟付帳には、百姓加次兵衛が立江村杢右衛の下人与次兵衛を買ひたること見えたり云々。楢明治四年古毛村棟帳に左の如きもの見えたり

壱家 出商人 善右衛門 歳 三十三

壱人 善右衛門下人 長八 歳 十九

此者同郡立江村幾右衛門弟明治元年より五ヶ年切本米捨りに買申候

延売二年宮倉村棟付帳には弟を売りたるもの五人、甥を売りたるもの一人ありたり。

宝文七年岩脇村棟付帳にも、五兵衛といふ百姓が二十五歳の娘マツを売りたること見えたり。又生活難よりして人身売買が公に行はれたるが、若しも買人なきは、無代で奉公させたものである。(以上。羽浦町史)

当代の人身売買の総てを尽さんには、まだ残された問題が尠くない。殊に奥州地方に於ける農奴制度、両毛地方に於ける機織女の奉公制度などは注目すべき問題であるが、今や与へられた紙幅を遥に 越えたので、又の機会に逃べるとして擱筆する。

(犯罪公論二ノ一と二)