五、室町時代

室町時代は幕府の勢威が地に墜ち、紀綱が頽廃しただけあって、人身売買は殆んど公然と行はれてゐた。殊に当代を支配した下剋上の思想は社会の秩序を破壊し、長袖●(糸へんに丸)袴の雲上人が草深き田舎に流離して在るに甲斐なき日を送り、土民は間断なき戦乱と飢饉のため塗炭の苦杯を満喫して零落し、然も大名となり小名となって時めく武家階級は、悉く鎗先の功名で成上った者だけに政道を解せず、倫常の地を払ふ又故なしとせずであった。当時、是等の成上り大名が京都に留って風紀を紊した事は「高師直、月卿雲客の御女などは、世を浮草の寄る方なくて、誘ふ水あらばと打佗ぬる折節なれば、申すも止事なき宮腹などその数を知らず、ここかしこに隠し置き奉りて、毎夜通ふ方多かりしかば、孰事の宮廻りに、手向を受けぬ神もなしと、京童部なんどが笑草なり」と、太平記の筆者が記した如く、暴状の限りを尽したものである。更に上を見做ふ下にあっては、生活の途を失へる女性を手に入れんがために、遂に中媒なる営業者を跋扈させ、猖んに人身売買を煽ったものである。そしてその荼毒の及ぶところ左の如き禁令を見るに下った。

京中の中媒の輩を停止すべき事

抑比来、天下に下女あり、京中にて中媒と称す。其号大に法度に背き、其企て浅く罪囚に渉る。窃窕の好仇を和誘して、陋賤の匹夫に配遇し、或は偽りて英雄華族と号し、成は西施下蔡と称して、偏に人情を蕩し、只身要と為す。奸罪巳に本条に載す、誑誕重科を添ふ者か。慥に使庁に仰せ、其宅を実録し且つ共身を糺弾せよ(原漢文)。

建暦二年三月

蔵人民部権少輔藤原資頼奉

中媒は古く瓩給、又は牙婆と称して、専ら物品売買の仲立業であったのが、当代に入り人買となり後世の桂庵、女衒と称する者の先をなしたのである。猶これに就いて後掲の信長記の記事を参照され たい。

誰でも知つてゐる事であるが、当代の文芸を代表する謡曲(現行二百番)を読んで感ずるのは、その題材に略人を多く採用してゐる点である。三井寺、自然居士、桜川、角田川の四篇は純乎たる略人を取扱ったものであり、木賊、花月、唐船の三篇は、間接にこれを資料としたものである。猶番外の謡曲中からも稲舟、隠岐院、信夫、千手寺、婆相天などの数篇か抽出することが出来る。そして斯く謡曲に略人事件が好んで採用されたのは、当時の世相の反映であっで、此の一事が如何に猖んに行はれてゐたかを物語るものである。奥州の豪族であった岩木判官の子である安寿厨子王の同胞が、人商に勾引されて三荘太夫に売り渡されたと云ふ物語の如きは、当代にあっては其処にも此処にもざらに在った事件に過ぎぬのである。私は好んで諸国の地誌類を読むが、各地に夥しく存してゐる鐘掛松の由来は、その大半までが当代の略人を防ぐための用意であることを知り、平和そのものであるべき村落まで、如何に是等の事件に怯えたかに驚いたものである。従って当代に於ける人身売買は決して珍しい事ではないが、左に一二の例証を挙げる。

南路志(土佐群書類従本)巻十三所載

アマ女譲与所従之事 合弐人者 一人字アツマ廿四歳 一人子シヤカ鬼年

右侍所従者、アツマ女重代相伝所従也、然二子息専当兵衛允限二永代一譲与所事明白也、歪二于後々将来一不レ可レ有二他人妨一、仍為二後日沙汰一所二譲与一之状如件

康永弐年三月十日 槲アマ女

専当兵衛充

別段に注釈すべきほどの難解の文句も無いが、猶鶏肋を添へれば、重代相伝とは遠く奈良朝の奴隷制度に縁を曳いたもので、当時は名子、又は庭子と称し、その子孫を代々所有してゐたとの意で、更に鬼年とは二十一歳のことである。

香取文書纂所収

申請お無尽の用途の状の事

合本直銭参百文者

右件の御無尽の用途は、毎月十五日限りある御銭子(私 註息、利息の意)をかけ申、無沙汰なく本子(私註、元利の意)共未進懈怠なく沙汰申べく候、若し未進懈怠を用事候はば、質券には綽名手古犬女良は、生年十五歳にまかりなり候を入れ置きまゐらせ候、猶以て此上を難渋申候はば、かの質券女良はを永代御相伝とめされ申候べく候、親類兄弟まして仕人に至るまで、□□等の異議申まじく候、猶々も□市町路頭を嫌はず、見合にかう□□をめされ申候べく候、仍為二後日一状如件(中山曰、仮名を真字に書き改めた所がある)。

応永六年巳卯了月十五日

置主 香取内のふとの村 住人田冷(判)

口入人 同所 住人 四郎神主(判)

これは無尽講の掛金に子供を抵当に入れたもので、此の人質が流れると重代相伝となるのである。

大乗院寺社雑事記(応仁元年正月の条)

鵲の又四郎ヲ一貫ニ買申●又四郎ニ売申、更々ケマウアルベカラズ候於永代売也

嘉吉三年癸亥六月二十八日 判

原書に誤写があるか文意の通ぜぬところがあるも、要するに又四郎なる者を銭一貫文で永代売ったことだけは判然する。そして斯かる類例は此の外に沢山あるが省略し、少しく変ったものを挙げると、妙法寺記の天文十五年甲州の軍勢が、信州佐久郡志賀の城を攻落せる条に「男女いけどり被成而悉皆甲州へ引越申候、去程に二貫三貫五貫六貫にても、身類ある人は承け申候」とあるのは、捕虜を売った例であり、更に日本奴隷史によれば「天文永禄の比には、駿河の富士の麓に富士市と称する所謂奴隷の市場ありて、妙齢の子女を購ひ来たりて之を売買し、四方に輸出して遊女とする習俗ありき」と載せてある。此の記事は現在の山口県その他の奉公市と混淆してゐるやうに思はれるが、姑らく参考までに掲げるとした。そして信長公記(巻十二)には左の如き記載ある。

天正七年九月二十八日、下京馬場町門役仕候者の女房、あまた女をかどわかし、和泉の堺にて日比売申候、今度聞付村井長春軒召捕糺明候へば、女の身として今迄八十人ほど売たる由申侯則ち成敗也。

此の女は前掲の中媒で人買を営業としたものであらう。当代も末葉の戦国期に入ると、各地の領主が己がじし国法を設けて人身売買に関しても規定してゐるが、大体に於いてこれを黙許して来たのであ る。そして人買の目的は女子にあっては娼婦が多数を占めたことは言ふまでもなく、男子に於いては農奴と武家の小者が多かったやうである。その頃の俗謡に「人買船は沖を漕ぐ、とても売らるる身を静かに漕げよ船頭殿」と云ふのがある、素朴なる措辞のうちに、人買ひ船で運ばれる売られた身の遣る瀬ない情緒が、綿々として長い水尾の如く曳いてゐる。