当代の人買は後世の質奉公の前駆をなすもので、名に於いては人身売買と異るも、実にあつては単に期限を附した売買と変るところが無いので、幕府はこれが禁制に努め、建長六年に左の如く布告した。
人倫売買の御制以前、訴訟を致し問状を給するに於ては、証文に任せて質人を流すベきなり。次に御制以前、流れに入ると雖も、御制以後訴訟を経るに至つては、早く一倍の弁へを致せ。人質の事は一向停止に従ふベきなり。此趣きを以て奉行せしむベきの旨、仰せ下され候也、仍て孰達如レ件(以上)。
建長六年五月一日
即ち御制(貞永式目)前の人質に就いては証文に任せ、質流れとして本主の隨意たるベく、次に御制前の質流れでも御制後に訴訟を経た者は、身代金の一倍を出せば解放すベく、然も今後は一切人質を停止すベしとの規定である。
そして当代の人質が如何なる契約で行はれてゐたか、その詳細を知ることは出来ぬけれども、寡見に入つた白拍子の古証文があるので、姑らくこれに依つて他を推すとする。名古屋市真福寺本の和名抄の背文書に、左の如きものが載せてある。
請申西心身代事
合一人者
右件子細者沽二却西心之養子得石女一之時、買主宝蓮房許にて五ヶ年之間に遣を請畢、其故者五ヶ年之内本銭十四貫にて可二謂出一之由約束によりてなり。雖レ然其約たがへて他人に沽却、然之間五箇年約束も不レ可レ懸之処、爾今買主石熊太郎城田御領へ付二沙汰一候によりて、被レ召二身代一候。雖レ然本人宝蓮房致二此沙汰一者不レ可二相知一之由、返答及二両三度一之間、於レ今買主之沙汰者存外也。依レ之玉王彼身代請出給之処也。但本人宝蓮房若相交て可レ遂二間注一の由有二申事一者、今年之内は彼西心を相具て可レ遂二一決一也。仍為二後日一沙汰証文進之状如レ件。
建長八年丙辰卯月二十五日
白拍子玉王(花押)
此の古証文には誤字や誤写がある上に、当代の文書に深く通ぜぬ私には、頗る解釈に苦しむ所であるが、強ひて私見を言へば、始め西心なる者が得石と云ふ少女を宝蓮房に売り、それを更に石熊太郎に転売し、両者の間に少女の引渡しに就いて苦情が起つたのを、今度は玉王と云ふ者が少女の身代金を出して、自分の人質となしたとの意ならんと考へるのである。そして此の解釈にして大過なしとすれば、当時、白拍子なる別社会にまで、人質奉公の行はれてゐたことが知られるのである。
そして幕府の絶えざる努力は奴婢を解放して、主従の関係は全く駆使の範囲を越えぬやうに改り、従来の如く畜産と同視して公然と売買する事だけに止むやうになった。当時としては仁政でもあり成功でもあつたに相違ない。