此の事は治安の上から当然であつて、深く言ふほどのことも無いのであるが、ただ此処には如何に此の種の犯罪に就いて幕府が苦心したが、その一端を述ベるにとどめることとする。然し新編追加を見るとこれに関する禁令が夥しきまで載せてあるが、今はその中の主なるものを挙げて、多少の私見を加へることとした。但し条文の終りに附した数字は、新編追加の番号である。
売買の為に、其業を専らにする輩は、盗賊に准じて其沙汰あるベし。向後この法を守りて、施行せらるベし云々(日本古代法典本百二十二)。
件の輩、本条に任せ断罪さるベし。且つ人商人は、鎌倉中並に諸国の市間に、多く以て之あり、自今以後は、鎌倉は奉行人に仰せ、交名の注申に随ひ追放せらるベく、諸国に至つては、守護人に仰せて科断せしむべし(百二十四)
件の族、本条に任せ罪科に処すベきなり。而して鎌倉中並に諸国の市塵の間に、多く此業を専らする輩あり。諸国に至つては守護地頭等に仰せ、慥に断罪すべし。鎌倉中に於ては火印を其面に捺すベし(百二十七)。
斯く幕府は勾引人を盗賊に准じて罰し、且つ面上に火印を捺すまでの刑を科したのであるが、その成績は思ふに任せぬ事が多かつた。猶当時の規定に由れば親子兄弟等の間に於いては、勾引罪は成立せぬことになつてゐた。