幕府が禁令を発したのは嘉禄元年十月が最初であるが(此の法令は略人の項に挙げる)、次で貞永元年に発布された御成敗式目の第四十一条に、左の如き規定を設いた。
右は右大将(源頼朝)家の御時の例に任せ、其沙汰無くして十ヶ年を過れば、理非を論ぜず沙汰を改むるに及ばず、次に奴婢の生む所の男女の事は、法意の如きは仔細ありと雖も、同御時の例に任せ、男は父に付け女は母に付けベきなり(原漢文)。
式目は幕府の憲章であるだけに細節に渉らず、ただ奴婢及び雑人(農家の場合は下人と称した)は、売買といへども十ヶ年を経過すれば時効にがかれるものとして理非の論なく沙汰を改めず、従前の如 く使役して差支なく、更に奴婢の子は、男は父に女は母に付けよと大綱を定めたのである。かくて幕府は五年を経た延応元年六月に制法を発したが、翌延応二年は下の如き禁令を発するに至つた。
代々の新制に云ひ、関東の施行に云ふ。而して寛喜飢饉の境節には、或は子孫を沽却(売る事)し、或は所従を放券して、活命の計に宛るの間、禁制を被る者却つて人の愁歎となるベきに依り之を沙汰する無し。今世間本に復するの後、甲乙の輩、遠犯を鎮令す。甚だ以て其謂れ無し、自今以後に於ては早く之を停止せしむベく、延応元年六月廿日の仰せの如く、当市庭に札を立て国中に触れ廻さしむべし。若猶御制に拘らざる者は在所並に交名を注せしむベきの状、仰せに依り孰達如レ件(同上)。
延応二年五月十二日
此の禁令で注意すベき事は、人倫売買は代々の制止であるが、特に飢饉の非常時に限り、手心を加へて寛大に取扱ひ、沙汰無し(黙許の意)とすると云ふ点である。そして時代は少しく降るが、飢饉の折に子が身を売つて母を救うた例が、沙石集(巻六)に左の如く載せてある。
文永年中、炎天旱久しくして、国々飢饉おびただしく聞えし中にも、美濃尾張殊に餓死せしがば、多く他国へぞ落ち行きける。美濃の国に貧しくして母子ありけり。本より頼りなき上、がかる世にあひて飢ゑ死ぬベがりければ、忽ちに心憂き事を見んよりは、身を売りて母を助けんと思ひて、母に此の様を云ひければ、母ふつと許さざりけれども、若し命あらば自がら廻り遇ふ事もありなん、忽ちに飢ゑ死なん事もさすがに悲しく覚えて、母は斯く制しけれども身を売りて、代りを母に与へて、泣々別れて東の方へぞ行きける(摘要)。
安貞がら寛喜へがけての五ヶ年の飢饉は実に惨状を極めたもので、餓死する者頗る多がつたので、自がら進んで身を売り、又は父兄の為めに売られた者も少くなく、幕府でも目前の急を救ふ手段として寛大に取扱つて来たのであるが、流弊の結果は飢餓に名を托して、濫りに人倫を売買するので遂に此の制令となつたのである。そして幕府ではこれに引続いて仁治元年、建長七年、寛元三年の三回(此の間にも略人、人質を禁ずる法令を発してゐるが、それ等はその項に掲げるとする)に及んで発令してるる。ここに仁治のだけを載せるとする。
右は人勾引、並に売買仲人の輩は、関東に召し下さるベし。見及ぶに随ひ其身を放免さるベきなり。且つ此旨を以て路次関々に触れベきものなり(原漢文)。
仁治元年十二月十六日
幕府は斯くの如く鋭意人身売買の蛮習を掃蕩しようと努めたが、因襲の久しきと窮民の増加とは、遂にその目的を達成する事が出来ながつたのである。これは幕府の政策が一方に於いて武家が雑人(後世の小者、中間、足軽、若党などを含む)を扶持米を与へて抱へるよりは、これを買ふことの利便あることを考へさせ、一方に於いては窮民の簇出する根本原因に就いて徹底的の救済を講ぜずしてただ法令の威力のみでこれを払拭せんとしたのであるから、失敗に終るのは寧ろ当然とも云へるのである。併しながら武断政治を基調とした幕府にあつては、只管に厳罰主義を以て国民に臨み、買ふ者がある故に売る者を生ずるとなし、売人より買人及び仲介人に重刑を科せば自然と此の弊害の除去せらるべしと考へ、正応三年に至り左の如き厳令を下した。
右は人商と称して、其業を専らにする輩、多く以て之に在り、之を停止すベし。違犯の輩は、火印を其面に捺すベきなり(同上)。
正応三年
幕府の決意は壮とするも、その政策にあつては遺憾の点が少くなかつたのである。