四、鎌倉時代

鎌倉幕府の武断政治は、常に重刑主義と威嚇主義とを伴うてゐた為めに、人身売買に就いてもその威力を発揮し、奴隷問題を根本がら改善して、所謂鎌倉仁政の一として、後世がら仰がるるまでに成功した。

平安朝の醉生夢死時代を承けたこととて、当代に入るも人身売買は種々なる方法の下に狷んに行はれてゐた。そしてその原因は打続いた兵乱のために農民商估が産を失ひ、止むを得ずして子女を売ることが、殆んどその総てを占めてゐたのである。後世に記された俗書であつて玉石相半ばする嫌ひはあるが北条九代記(巻二)に、当時の窮民に関して左の如く述ベてるる。

嘉永元暦の騒乱に方つて、軍兵横行して居民を追捕す、これが為めに山野に逃亡し農桑の時期を失ひ、餓凍の歎きに沈み、溝漬に死亡するもの数を知らず。然るを今世は適々治り人は帰り住みて、収東耕西の務めを励ますといへども、地頭は貪りて賦歛を重くし、守護は劇しくして公役を繁くす。それ猶水干の災にかかる時は、日比の勤苦一時に空しく、手を措きて取り得る物なし。剰へ暴虐の目代年貢を売れば、価を半にして雑具を売り、資財なき者は倍息の利銀を借り、或は旧宅を壊ち、子女を販ぎ、これを以て相償ふ。若し弁ふる事なければ、妻子を捕へて裸にして荊の中に臥さしめ、農夫を縛りては跣にして氷を履ましむ。牢屋に繋ぎて水食を止め、或は井池に浸して寒風に侵さしむ。とても角ても有るも無きも、定めし限りの正税を肯はしむ(摘要)。

記事が誇張されてはゐるけれども、ほぼ事実と見て差支ないやうである。更に偽書との説もあるが僧西行の選集抄に、越後国にて人市を立て、老幼男女の奴婢を売買するのを目撃したと載せてゐる。当時、諸国の農民が凶作と重税とに堪へずして、各地へ逃散した数は決して尠くは無がつた。然もその都度に領主は残れる妻子を抑留し資財を奪取するのが常であつて、その弊害は底止するとこるを知らぬ有様であつた。それで幕府でもこれを懲戒する意味で、貞永式目に、左の如き一項を加へるに至つた。

百姓逃散の時、逃毀と称して損亡せしむる事

右は諸国の住民逃脱の時、其領主等逃毀と称して妻子を抑留し資財を奪取す、所行の企て甚だ仁政に背く、若し召決を被るの処、年貢の所当未済あらば、其償を致すベく、然らざれば早く損物を糺返せらるべし。但し去留に於ては宜しく民意に任すベきなり(原漢文)。

此の式目を以て前掲の記事を稽ふるとき、思ひ半ばに過るものが在つて存するのである。そして幕府は人身売買の禁令を、雨の如く降してこれが剿絶を試みた。左に是等に就き項を分けて略述する。