平安朝に入ると、前代の奴隷制度は漸く崩壊し始めたが、その代り貨幣経済が発達したので、人身売買はがなり狷んに行はれたやうである。そして是れが用途は、男子なれば旧時の如く依然として農奴であつたが、女子─殊にそれが若き者にあつては娼婦として働がせることが行はれるやうになつた。これが前代には見られぬ事であつて、当代に於いて新に起つた女奴使役の一方面である。左に当時の文献がらこれが実証を抄出する。今昔物語(巻廿四)に近江国の女主に仕へた下男が、その女主を欺き美濃国に売つた顛末を述ベて、
年来付仕ひける男の、万に付て後安く翔ひければ、夫失て後はこれを打憑みて、何事も言合せて過ぎけるに、此男の云く、ここで徒然にて御座むよりは、これより近き山寺の候に御まして暫らく湯などに浴させ給へかしと女をば馬に乗せて、男は後に立て行けるに三日将行にけり、然て人の家の門に女をば馬より下して、男は家の内に入りぬ。女見屈たれば、此の男に家より絹や布などを取らす。こは何事にて取らするが有らむと思ふ程に、男この物を取るままに逃げるやうにして去ぬ。其後にて聞けば、早う此男の謀りたるやうは、主の女を美濃国に将行て売つるなり。然れば女涙を流して泣けれども、家の主は耳にもがけず聞き入わずしてありけると云々(摘要)。
猶同書には人商ひに売られた少女が大病にかかり、主人は回復の見込みなしとて無情にも少女を野外に棄てんとするや、少女は常に家に飼ひ置ける猛犬を恐れてゐたので、せめて猛犬の来りて喰はぬ遠い所へ棄ててくれと悃願する聞くも哀れな話が載せてある。更に古事談(巻三)に自分から身を売つた変つた話が記してある。
京都より東国に修行の僧、武蔵国に留りて法華経を読み歩きてありけるが、国人と双六を打ち多く負け身さへ掛けて打入りぬ。勝し男、奥州へ将入て馬に替んとしけるを、一向専修の僧徒が聞き不便の事なりとて、各々布を出し合ひて請留んとし、勝し男も三百反の布を半分にてよしと云ひしより、僧徒は負け僧にこれよりは法華を棄てて念仏に入るベしと云ひしに、彼の僧縱ひ馬の直となりて縄つらぬきて奥州へ罷り向ふとも法華は棄てじとて、泣々縄を付けられ追立てられて奥州へ下りぬ(摘要)。
元より普通の人身売買と見ることは出来ぬけれども、当時、此の事が各地に狷んに行はれてゐたればこそ、人と馬とを交換すると云ふやうな不合理な話も伝はつたのである。そして更に人身売買が最も多く行はれた遊女方面に於いては、長者と称する娼家の経営者(後世の楼主と同じもの)が現はれ、かなり大規模で営業を続けたやうである。大江匡房の「遊女記」に詳記してあるが、左に必要の部分だけを摘録する。
山城の淀津より巨川に浮び、西に行くこと一日これを河陽と謂ふ。山陽南海西海の三道に往返する者、此の道に遵はざるなし。江河南北に分流し河内国に向ふ、これを江口と謂ふ。摂津国に到れば神崎、蟹島等の地あり、門を比ベ戸を連ね、人家は絶ゆるなく娼女は群を成す。扁舟に揖して舶を看検め、以て枕席をすすむ。釣翁商客、舳艫相連り殆んど水無きが如し、蓋し天下第一の楽地なり。上は郷相より下は黎庶に及び、牀第を接し慈愛を施さざるは無し。又妻妾となり身を歿して寵せらる。南は則ち住吉、西は則ち広田、これを以て徴嬖を祈るの処となす。その数百千に及び能く人心を蕩す、亦た古風のみ。得る所の物これを団手(今の揚代金の意)と謂ふ。均分の時に及ベば大小を諍論し闘乱に異らず。その豪家の侍女、上下の船に宿り又少分の贈りものを得て一日の資愛となす(原漢文)。
平安京の大動脈は淀の河流であつた。支那がら舶載された唐代の文物は言ふまでもなく、九州、中国海へ発着する物質の集散も旅客の大半も、此の流れを一筋と頼んで歩みを京地へ運んだのである。
当時、関東及び奥羽北越の地方は文化の実績が挙らず、平安京の殷賑は専ら関西から移されてゐたのである。従つて此の大動脈である淀の河口なる神崎、蟹島を始めとして、その沿岸なる江口、鳥飼などの地に津屋駅舎が設けられ、謂はゆる船着場として非常なる繁昌を来たすと同時に、是等の長亭短駅に必然的に従属する娼婦が起り、情波を漂せ淫風を吹がせたのであるが、その数百千と云ひ、豪家の侍女と云ひ、その多くは人買の手にかかつた者と考へられるのである。
当代に於ける人身売買の証券が寡見に入らぬが、一般にこれが行はれてゐることは、その頃に実施されてゐた法律が此の事─特に幼者と妻妾を売るを禁じてゐる点がらも知られるのである。律疏残篇に左の如き規定が載せてある。
(四四)凡そ人を略め、売人を略め(和せざるを略と為す、年十歳以下は和すと雖も亦略法と同じ)、奴婢と為す者は遠流云々。家人と為す者は徒三年、妻妾子孫と為す者は徒二年半、未だ得ざる者は各四等を減ず云々(中山曰、和とは相談づくの意)。
(四六)凡そ二等卑幼及び兄弟の孫外孫を売り、奴婢と為す者は徒二年半(二等卑幼とは弟妹若くは兄弟の子を謂ふ)。子孫は徒一年、即ち和して売る者は各一等を減ず、その余親(中山曰妻妾の意)を売る者は、各凡て人を和略する法に従ふ(原漢文)。
是れに由ると当代の人身売買は前代に比して頗る厳重となつてゐる。前代の奈良朝に於いては賤民(即ち奴隷)である以上は、幼者でも妻妾でも売買は自由であつたが、当代にあつては両者を通じ和略ともに罪科に処したことば非常の相違である。そして斯うした変遷を見るに至つた事情は、元よ一二にしてとどまらぬと思ふが、その第一は幼年の奴婢を酷使することが余りに極端であつたので、遂に為政者をして幼者保護のため斯かる制令を発するに至らしめたものと思ふ。第二の妻妾を売ることを犯罪としたのは、血筋の混乱を防ぐ為めであらうと考へられる。即ち妊娠を自覚せざるほどの初期の者が他に売られた場合には、その結果として往々家筋を乱すやうなことがあるからである。現行の親族法に於いても、妻は離別後相当の日子を経なければ再婚出来ぬと同じことである。併しながら斯うしたことが国法に規定されるに至つた最大原因は、名教の学が起り倫常の事が説かれるやうになり、延いて前代の奴隷法が余りにも非人道であることに気付いた為めである。さればにや形式的にもせよ延喜格を以て奴婢を停止し、格後奴婢あるべからずとして、従来の奴隷法を廃棄することになつたのである。
奴婢法は廃棄されても、それで人身売買が根絶したとは思はれぬ。当代の国民は国司の飽くなき誅求や、週期的に襲来する飢饉等のために、拠ろなく子を売り妻を売り、果は自身まで売ることを余儀なくされ、然も此の事たるや時に消長あるも依然として永く広く行はれつつ次期の鎌倉時代に入つたのである。猶一言すベきことは前掲の律疏残篇の規定が、売人よりも買人を重く罰した点であるが、これは立法者が、買人があるので売人があると考へた結果である。