一、奴隷の価額

同じ奴隷でも男女により、年齢により体格の強弱により、更に女子にあつては美 醜により、価額に相違あるは当然のことであるが、大略左の如き価額で売買されたものである。

美濃国司解(正倉院文書)

美濃国司解申進上交易賤事

合 六人 奴三婢三

価稲 四千九百束 二人充各一千束 一人七百束 二人各八百束 一人六百束

奴小勝 年三十四 右目下黒子 価稲一千束

右山県郡大神戸主神直大庭之賤

奴豊麻呂 年二十二右頬疵 価稲一千束

右武義郡揖可郷戸主武義造宮盧之賤

奴益羽 年十五 左目下黒子 価稲七百束

右加茂郡小山郷戸主上連稲宝之賤

婢乎久須利売 年二十二右目後黒子  価稲八百束

右厚見郡草田郷戸主物郡足麻呂之賤

婢古都売 年二十 左頬黒子 価稲八百束

右恵奈郡絵下郷戸主県主人足口県主息守之賤

婢椋売 年十五 右頬疵又黒子 価稲六百束

右可児郡駅家郷戸主守部麻呂之賤(中略)

天平勝宝二年四月廿二日(下略)。

此の国司解に見るも奴小勝と同じ奴豊麻呂が、共に稲千束を以て売られてゐるのは、二人とも働き盛りの壮年者であるためで、婢の古都売と同じ婢椋売の間に価額の相違あるのは、年齢と美醜の関係に 由ることが知られるのである。そして当時の稲一束は米五升(現在の京桝にて五合強)換へなるを以て、千束といへば米五十石に相当するのである。これを以て奴婢一人の凡その値段が分るのである。 更に特殊の一例として男奴より女奴が高価に買はれたものである。

但馬国司解(正倉院文書)

但馬国司解申進上奴婢事

合進上奴婢伍人 三人奴二人婢 価稲千五百五十束

奴池麻呂 年二十四唇左上黒子 価稲九百束

右出石郡少坂郷戸主外従七位下宗賀部乳主之奴

奴糟麻呂 年二十四 右目後疵 価稲九百束

右同郡穴見郷戸主大生直山方之奴

奴藤麻呂 年十五鼻折左辺黒子 価稲八百束

右同郡同郷戸主土師部美波賀志之奴

婢田吉女 年十九 左頬黒子 価稲一千束

右朝来郡桑市郷戸主赤染大野之婢

婢小当女 年十七 頸右黒子 価稲九百五十束

右二方郡波大郷戸主采女直真鳥戸采女直玉女之婢(中略)

天平勝宝二年正月八日(下略)。

斯くの如く女奴が男奴より高価に取引されたのは、その買主が女奴の容色に打込み、これを寵愛せんがために特に奮発した値段と見るべきである。これが後世になると女子の身売りと云へば、殆んど十中の七八までが娼婦として売笑させられるのであるが、当代に於いては娼婦の社会的位置が割合に高く、到底、賤民である女奴を娼婦にしたのでは顧客を得ることが困難であつた。それは恰も江戸期に 於いて非人町離と云ふが如き者の娘を遊女にしたのでは、嫖客が来なかつたのと同じ理屈である。殊に当代にあつては娼婦を五人なり十人なり買ひ込んで営業とするまでに遊里が発達してゐなかつたのであるから、これは買主と女奴との相対関係と見るのが穏当である。私の寡聞のためか我国の奴隷が売笑した事実は、当代には遂に発見することが出来ぬのである。奴隷の使途に就いでは後に述べる。

猶この機会に併せ考ふべきことは、当代の農民生活と人質との関係である。此の頃の債権法によれば、債権者は金銭を貸付る場合に、債務者の所有する田畑と併せて、その者の妻女又は子女を抵当として、一種の質権をそれ等の者の上に設定することが許されてゐた。そして若し債務者が義務の履行を怠つた際には、債権者はその抵当の婦女なり男子なりを随意に拉し来たり、是を一日幾らと時価の労働賃銀に換算し、その債務額に充当するまで三年でも五年でも強制的に使役する権利を有したもので、これを出挙折身と称してゐた。左にこれが古文券を掲げる。

出挙銭解(正倉院文書)

謹解申出挙銭請事

合請銭四百文

高屋連兄胲質口分田二段

相妻笑原木女 女稲女 阿波比女

右人生死同心、八筒月内半倍進上、若期月過者、利加進上、謹解。

若年不過者稲女 阿波比女二人身入申

天平勝宝二年五月十五日

此の券面に現はれた生死同心とは今日の連帯責任の意、半倍進上とは八ヶ月に五割の利子を附けるとの意であつて、身入とは即ら人質たることを承認したものである。後世になっても人質の事は行はれてゐたが、その源流は早くも当代に発したのてある。殊に時代が降ると、農民が納税を怠ると、官吏は直ちに未納者の妻女、又は子女を公衙に拉致して、枕席に侍らせ或は使役したものであるが、農民は此の暴戻を忍ぶことが出来ぬので、拉致されぬ以前に妻女や子女を売つた例が夥しきまでに存してゐるが、当代にあつてはまだ租税未納のために人身を拉し去ることは行はれなかつたやうである。万葉集の貧窮問答歌の結句に「刑杖取る里長が声は、閨処まで来立ち呼ばひぬ、かくばかり術なきものか世の中の道」とあるが、拉致のことは見えてゐぬやうだ。