二、奈良朝時代

我国にて人身売買の事の正確なる記録に現はれたのは、天武紀五年五月の条に下野の国司奏す。所部の百姓、凶年に遇ひ飢乏す、子を売らんと欲す。而して朝聴さず(原漢文)

とあるのが初見である。そして此の記事は売買を許さなかつたものではあるが、これには一応説明せねばならぬ事がある。それは外でもなく、天武朝に於いては既に近江令(此の令は散逸して今は伝つてゐぬ)の制定を受けた後であるから、奴隷を一種の財物として売買ともに主人の随意であると規定されて(近江令の精神を継いだ養老令から反推して)ゐたと信ぜられる。それ故に下野の国司が奏した百姓の子とは、即ち奴隷以外の良民なるを以て斯くは許可せぬ事になつたのである。反言すれば良民ならぬ奴婢の売買にあつては、当時でも公許されてゐたものと考ふべきである。

然るに斯うした制限も永続せず、僅に十五年を経た持統紀の五年三月には此の制限を緩和した。左の如き詔勅を拝するに至つたのも時勢である。

詔して曰く、若し百姓の弟、兄の為に売らるる者あらむには、良に従へ。若し子、父母の為に売らるる者あらむには、賤に従へ。若し貸倍(利子の意)に准へて、賤に没られなば良に従へ。其子奴婢に配へりと雖も、生む所は亦皆良に従へ(原漢文)。

此の詔勅の大意を言へば、弟が兄のために売られたのは良で、これに反して子が父母のために売られたのは賤であるとは、孝悌の差に由ることであつて、金利のための身売りと、その子が奴婢に配す とも、共に良にしたのは情に於いて忍びぬ点があつたからだと考へられる。そして斯く奴婢を寛大に取扱ふやうになつたのは、良民が心ならずも賤種に墜つることを憐まれた結果に外ならぬ。斯くて我 国の奴隷法は養老令に於いて規定されたのである。

全体、我国の奴隷は政府の使役に属するものを官奴婢、又は公奴婢と称し、王臣以下豪農等の有するものを私奴婢と云ひ、神社のを神奴婢、寺院のを寺奴婢と称して(此の両者は概して信徒の寄進に 由る)ゐて、その子孫は何等かの事由で解放されぬ以上は、代々奴隷としての境遇に置かれ、畜産と同じく売買贈与ともに全く主人の権限に属してゐたのである。左に当代に於ける奴隷売買の価格、及び労役の内情等に就き項を分けて略説する。