一、国初期の奴隷

我国には神代から奴隷が在つた。大国主神が同胞神たちに苦しめられ「袋を負うて従者となる」とあるのは、太古において奴隷の別名を袋負と云うたことからも推知される。更に豊玉媛が分娩に際し、「妾が奴婢君の処に至らば復な放還しそ、君の奴婢妾が処に至らば亦復還さじ」とあるのも、その例証とすることが出来る。併しながら是等の奴隷なる者が後世のそれの如く、人身売買に由るものと見るのは速断である。由来、我国の上代に於ける奴隷の発生には凡そ三つの区別がある。第一は戦争の捕虜となつた者、及びその子孫、第二は犯罪によつて身分を没せられた者、及びその子孫、第三は債務の弁済が出来ぬために債権者に駆使せらるる者がそれである。そして我国の上代には貨幣経済は存せず、従つて物の売買は行はれず、漸く物々交換を以て有無を通じてゐた状態に過ぎなかつたのであるから、如上の奴隷も捕虜か犯罪か、又は債務関係に由つて発生したものと見るべきである。されど発生の事由が如何にあらうとも、我国に太古から奴隷なる者が存してゐて、売買行為が発達すれば直ぐにも人身売買が行はれるだけの有様に置かれてゐたことは事実である。更に想像を逞うすれば、記録にこそ残つてゐぬが、当時の財物であつた稲、鍬、鹿の皮などを以て人身と交換することが行はれてゐたかも知れぬ。奴隷の発生は我国にあつても決して新しい事では無いのである。

私は此の奴隷の存在から筆を起し、我国の過去二千年間に於ける人身売買の歴史を略述せんと企てた。ただ恐るるのは私の好むところに偏して女性に重く男性に軽く、且つ史料が先輩の博索を踏襲するのみで、新しく提供するものの極めて尠いことである。私は出来るだけその時代の奴婢の用途と、人身売買の傾向とに就いて注意を払ひたいと思つてゐる。これに関して高示を仰ぐことが出来れば幸甚である。