二、鶏卵を食って村払ひ

明治十三年二月の仙台日々新聞に、宮城県宮城郡七北田村大字荒巻では昔から氏神(神明社)の戒めで、氏子が鶏卵を食ふと祟りがあるとて、誰でも食はぬこととしてゐたのを、氏子の三五郎と云ふ者が開化の世にそんな事は無い、鷄卵は滋養になると食つたのを他の氏子が知り、三五郎を村払にすると紛議中だと載せてある。

我国には鶏を飼はぬ村、又は鷄卵を食はぬ氏子と云ふのは頗る多い。そして此の禁忌の始めて起つた場所は出雲の三穂ヶ関で、その理由は斯うした伝説から出てゐるのである。即ち大昔に事代主神が三穂ヶ関に居る姫神の許に通うてゐた。或夜も例の如く姫神の許に来てゐると遽に鶏が鳴いたので、事代主神は急いで船に乗つて帰途に就かれたが(鷄が鳴くと神は下界に居られぬと云ふことは注意すべき点であるが今は省略する)、余り急がれたので櫂を忘れ手で漕いでゐるうちに、鰐にその手を咬まれて負傷した。それで此の神の怒りに触れ、三穂ヶ関では現今でも鶏を飼はず氏子は鶏卵を禁食してゐる。そして此の話が河内の道明寺村へ伝はると、少しく話の筋を違へて語つてゐる。それは誰でも知つてゐるやうに、菅原道真が九州へ遷される折に同村に居る伯母に別れを告げに来て話してゐると鶏が鳴いたので、「鳴けばこそ別れも憂けれ鶏の音の、なからむ里の暁もがな」と詠歌して、尽きぬ名残を惜しむだので、村の者が鶏を憎み飼はぬやうになつたのだと云うてゐる。そして此の話は後に菅原伝授手習鑑と称する浄瑠璃に書かれて天下に流布されたので、殊の外に有名になつたのである。斯うした類話を各地から拾ひ集めて見ると、そこに結論とも云ふべきものが自然と出て来るのであるが、ここに結論だけ云ふと此の話は出雲に住んでゐた土師部の祖先に関係あつたものを、土師部の子孫又は関係者が、国々に移住土着するやうになつたので持ち伝へたものなのである。荒巻に土師部の由縁の者が居たかどうかは分らぬが、一応は斯う考へることが必要である。尤も伊勢神明宮は鶏を使令とすると云ふ俗信もあるので、或は荒巻は此の方に由来してゐるかも知れぬが、それにしても鶏卵まで食はぬとは腑に落ちぬ話である。