一、××の初夜権

明治十六年二月の郵便報知新聞に、宮城県宮城郡花巻ヶ浜地方では昔からの習慣で、人の婚礼するとき、其の嫁の×又は×××が初夜権(中山曰。青森県では此の事を口取りと称した)を有してゐた。明治の聖代になつては此の習慣も追々と泯びたが、稀にはその遺風を固守する者もあつた。同地の水島治右衛門と云ふ老人が、伜の治作(十八歳)に同村の大内其の娘お富(二十二歳)を嫁に迎へることとなり、婚礼式が終りその夜の午前二時頃になつても、×も×も姿を見せぬので不審に思ひ、親族の者が別間に這入つて見ると××××××の××は、既に息絶え五体も冷えてゐるので大騒ぎとなりしが、××は前世からの約東で斯かる事で死んだのであらうと、××を××棺に納めて葬つたと云ふ記事が載せてある。

此の記事には二つの問題が提供されてゐる。一は××が初夜権を有すると云ふことで、一は×××に死ぬと云ふことである。先づ前者から言ふと、此の種に属する結婚法は私の知れる限りでは支那に多く行はれてゐたやうである。尤もこれに関しては曾て詳しい研究が、社会学雑誌に掲載されたことを記憶してゐるので茲には省略するとして、更に此の類例を我国に寛めると、古く阿波国の山間の一部で行はれてるたやうである。即ち同地方では×の嫁を擇む場合に、必ず伜の年より嫁の方が少くとも五六歳、多いのは八九歳もの年長者たることを要件としてゐた。そして表面の理由は此の方が世帯の為めに宜しいと云ふことになつてゐるが、その実際は××が初夜権を行ひ引続いてこれを行ふ便宜に由来してゐたのである。それ故に同地方では×の妻か×の嫁かその区別が甚だ曖昧であつた。然も斯うした風俗が親から子へと代々行はれてゐたと云ふことである。そして×××が初夜権を有してゐたことは決して珍しいものでは無く、かなり古くからかなり広く行はれてゐたもので、関東辺で媒人八番と云ふのもその遺風である。

×××に男女の双方、又はその一方が頓死した例証も尠くない。仏説ではこれを無上の大往生と云うてゐると聞いてゐるから、印度にも斯うした例が在つたのであらう。我国でも名前を書くことだけは遠慮するが奈良朝以前から此の事の在つたことが伝説として残つてゐて、代々これを××死と称してるたと聞いてるる。明治になつても某名士が、最近にも某豪商が然も吉原で、此の大往生を遂げたことを耳にしてるる。此の事は医学的に見たら実に平凡なことであるかも知れぬ。