明治十二年十一月の東京日々新聞に、深川区森下町の人力車夫萩原林蔵は性来の悋気深い男で、毎日稼ぎに出る折に女房お勝の何処かへ墨で標をなし、昼飯に帰ると必ず改めては出掛ける。然るに林蔵の弟の亀吉が同町内に越して来て、林蔵の留守宅へ屡々遊びに見えるやうになつてからは、昼の一度では済まぬ事となり、日に三四度も墨で書き改めるので、遂に女房お勝も愛想がつき、その筋へ説諭方を訴へ出たと云ふ記事が載せてある。
此の記事を読んで誰でも想ひ起すのは、今を距る八百年ばかり昔の鎌倉期に、僧無住の書いた、沙石集の記事である。その梗概は旧き物語に、或る男が他行するとき間男を持つてゐる妻に標をつけるとて、隠れた所へ牛を描いて出かけた後に間男が来たのでその事を咄すと、己にも書が書けるとて不義を働いたが、良人は臥た牛を描いたのに間男は立つた牛を書いた。やがて良人が帰つて来てこれを改め、臥た牛が立つてゐるとは間男の仕業だと責めると、その女房の言ふに臥た牛でも稀には立つこともあると答へたので、良人もさもあるべしとて許したとある。僧無住が、旧き物語として書いたのであるから、恐らく平安朝頃から民間に伝はつてゐた話と見て、差支ないやうである。
然るに南方熊楠氏の研究によると、これに類似した話は欧州にも支那にも在るとて報告されてゐる。それに由ると前者は若い書家が旅行するとき、×の××角の無い羊を描き帰つて来るまで消さぬやう注意せよと言ひつけて出て往つた。幾日の後に帰宅して改めて見ると羊に二本の角が生えてゐるので、姦夫の仕業なるべしと責めると、女房の曰く、羊だつて時節が来れば角も生えると答へた。後者は笑林広記に二つ載せてあるが、その一つを記すと亭主が女房の多淫を戒むるために、他出する折に×の右の×××人形を描いて往つたが、帰つて改めるとその人形が左の×××描いてある。そこで責め問うたところ女房の曰く、人形が退屈して歩き出したのだと云うたとある。更に和歌山市の昔話に、行商する者が出立に臨み、×の××の右の方に鶯を書き、帰つて見ると左方になつてゐるので、妻を詰ると曰く、鶯が谷渡りをしたのであらうと答へたとある。
以上の墨の貞操帯の話が、一元から分かれて斯く諸方に伝へられたものか、それとも各地別々に発生したものか、それは容易に何れとも断言されぬことではあるが、深川の車夫の話を土台にして考へると、斯うしたことは誰にでも案出される方法と思はれるので、その地方々々で発生したものと見て差支ないやうである。
(デカメロン一ノ二)