江戸の巫女の取締は、浅草三社神社の神主であつた田村八太夫(代々此の名を称したが、これは関八州の取締なる故に、かく称したと云うてゐる)が勤めてゐた。
十一代目の八太夫が大正十二年に死んで男系が尽き、絶家(一人の娘が東京市外蒲田に居る)となつてしまつたが、此の八太夫の神占の作法は、全く他流とは異つたものであつた。
ここでは詠み歌とて、三十六首の和歌を土台とし、神占を頼む者が神前へ入るまでに一首、入つて坐るまでに一首と云つた工合に、順々に声低く唱へ(この場合には、単なる和歌ではなくして、咒文としてであることは言ふまでもない)て往つて、咒術を行ふ巫女の膝の前には、六張の弓(これを六首六張と云つてゐる)を並べ、菅の葉でこれを掻き鳴らしながら、残りの歌を唱へながら神懸りの状態に入るのを作法とした。そして六張の弓とは梓の弓、雌竹、雄竹の弓、桑の弓、南天の弓などで、弦は女の髪の毛を麻にまぜて、撚り合せたものだと云うてゐる。
併し後になると、此の方法は手数が掛かるとて余り用ゐず、専ら珠数占とて切り放した珠数(珠の数は我国の数を象つて六十六とし、外に親玉として天地を象り二つを加へてゐる)一本で遣るやうにした。
そしてその方法は、珠を九々で払つて往つて、一つ残れば一気天上ノ水、二つなれば二気虚空ノ火、三は三気造作ノ木、四気剣鉄ノ金、五気慾界ノ土、六気江河ノ水、七気国土ノ火、八気森林ノ火、九 気山中ノ金と云ふ塩梅に割当てて判断するやうになつた。
かうなつては、全く巫女の本分から離れて、俗に九星といふ占卜の領分へ足を踏み入れてしまつたのである。