一二、日本一の巫女村と旅稼の内職

東北地方に残つてゐる巫女は、俚称をイタコと云ひ、オシラ神を遊ばせながら、イラタカの珠数(これには猿の頭、狼の牙など動物の骨を沢山つけてゐる)を用ゐて占をする。そして此の信仰が、まだ濃厚に存してゐるのである。イタコの修業や作法も、かなり神秘的なものではあるが、これは地方が限られてゐるので、深く言ふことを見合せるとする。

それから長野県小県郡禰津村大字禰津は、昔は日本一の巫女村であつた。村内に四十八軒の親方があり、一軒で少きは三四人、多きは三十人もの巫女を養成して置いて、毎年春四月になると、それ等の巫女が親方に引率され又は姉弟子に伴はれなどして、幾組かに分れて、関東八州、濃尾から紀州の方まで旅稼ぎに出かけて、その年の十二月末までに帰村する習はしになつてゐたのであるが、現在では悉く無くなつてしまつて、巫女の話をしてくれる者も無いと云ふ有様である。

巫女の旅稼ぎは、独りここばかりでなく、全国のそれが出かけたものである。そして旅へ出ての商売は、口寄せの外に、若い女につきものの笑ひを売ることが多かつたのである。

巫女のことを地方によつて「旅女郎」又は「白湯文字」と呼んだのは、此の性的職業から負うたものである。

長野県の昔話に、或る日巫女が、「今日は不思議の日ぢや、いくら祈祷しても神様が乗らツしやらぬ」と云ふと、傍らに居た男が、『なんで神様が乗らツしやるものか。おまへは、朝まで………』と、野次つたと云ふのがある。

極端な一例ではあるが、かうした暗いところがあつたのは事実である。又土地によつては、巫女と関係すると福運を増すと迷信し、猖んにこれを追ひ廻すところもあると聞いてゐる。江戸へ稼ぎに来る旅の巫女などは、口寄せよりはその方が本業であるかと思はれるまでに発展したものである。

江戸の巫女は蒲鉾形の竹の子笠を被つて市内を流して歩いたものだが、普通の婦人はこれと間違へられるのを恐れて、決して竹笠を被らなかつたと云ふことである。