一一、巫女が天下の俗信を集めた理由

巫女が生口、死口、神口の場合に、霊魂の代理者となつて答へる文句も、種々なるものが伝はつてゐるが、ここにはその中からやや艶めかしい─芸妓が亡母の死口を寄せたものを、一例として要点だけを摘録する。

死口(亡母行年五十四歳、本人某妓)

「千々に思ひは増す鏡、弓を頼り座を力、一度は聞いて見ばやとて、ようこそ呼んでくれたぞえ。来るとは云ふも夢の間に、夢ではうつつ、梓では声聞くばかりで残り多い。姿隠して残念だ。身が世が世でありたなら、何か便りにならうけれど、力になるもなれないし、最後をしたが残り多い。往生したが残念だ……俺に死なれて此方は、さぞ張り合ひが悪からう。惜しい所で終ひして後の所も乱脉だ……どうか苦になる後々を、どうぞ纏めて、成るたけ世間の人様にお世話にならぬやうにして、ならぬ中にも精出して、出来ぬ中にも丹精して、どうか互ひに睦まじく、どうか依るべき血の中を、大事にかけて暮されよ。何を言うても言はれても、血は血でなければならぬから、どうぞ互ひに往復も、仏がなけりやアアぢやないが、今の様はも陰からも、世間の口端に上らぬやう、どうぞ健者で暮してくれ……」

巫女の声は哀れにも湿つて来た。アノ世から悲しげに、囁く声とも思はるる陰にこもつた声なのである。初めからハンカチで眼を抑へてゐた芸者、ここまで巫女が言ひすすんで来ると堪へがたくなつ たのであらう。慈愛の母の面影さへ偲ばれて、人目も恥ぢず、其場へよよと泣き伏してしまつた。

―巫女は、妙に人を引付ける抑揚のある哀調をもつて、猶も文句を唱へつづける。

「言ひ置く事もありたれど、身の死際の果敢なさに、ツイ言ふことも言はないで此方のことや間に合はず、目を閉づる時だからとても、末期の水も貰ひ外し、身の因縁が悪ければ仕方もないが、後々は先祖の蔓の切れぬやうに暮してくれよ頼むぞよ……今日の一座はようくれた。久 しぶりでの物語、話して調が晴れたぞや……何と口説いたからとして元の姿にやならぬから、これで忘れて諦めて、名残り惜しくも暇乞ひ、遥か来世へ立ち帰る……」

─非常に長い文句であるが、兎に角かうした調子で物語るのである。

十六七歳の可愛ざかりの子供を先立てた母親などが、かうして巫女から死ぬときの苦しみや、死んでからの悲しみなどを物語られては、骨肉の絆に引き締められて泣き入るのも道理である。

九州の婦人が死んだ娘に、信州の善光寺に、塔婆一本立ててくれと言はれて、海陸三百里の旅をしたと云ふやうな哀話も、決して珍しいことでは無いのである。