かうした厳重な選定を経て、「かむなぎ」となつた女子の、神社内における日々の勤務は何であつたかと云ふに、それこそ秘密中の秘密として、全く世間には伝へられてゐぬのである。
昔は神社に勤める女子は、社内のことは骨肉といへども一切口外せぬと起請文を入れて、神に盟ひをしてゐたので、その神秘が長く保たれて来たのであるが、しかしそれは、『神も昔は人ぞかし」と云ふ古歌の意味を解釈すれば、後は多くを言はずとも想像することが出来るのである。
神に仕へた女子に、神が憑いて託宜をするときは、その女子が直ちに神としての威烈を行ふのであるから、その勢力は実に驚くべきものがあつたのである。
誠に長きことではあるが、延暦二十三年二月に、時の聖上が大和国の石上神宮に在つた宝物を、山城国の葛野郡に移された事がある。さうすると、翌年の正月から我が大君が御不例となつたので、建部千継と云う者を春日神社へお遣しになり御平癒を祈らせられた。然るに千継が奈良の松井町を通ると新しい神の憑いた巫女が居たので託宜乞ふと、その巫女が言ふには、歴代の聖上が慇懃の志を以て納められた神宝を、他所へ持ち運ぶとは宜しくない。それ故に、神が怒つて聖体を苦しめるのであると託宣した。
千継は大いに驚き、京都に帰つて此のことを申上げ、直ちに用意を整へてその巫女を宮中に召し、御魂を鎮める祈請をなさしめ、神宝を元の石上神宮に返納したと云ふことが記録に見えてゐる。十善の君にあつても、かくまで神託を尊んでゐられたのであるから、下万民が巫女を重んじたことが推察されるのである。
名古屋市外の熱田神宮は、叢雲ノ宝剣を斎き祭つたものであるが、中世から不思議の妖説が民間に行はれるやうになつた。それは熱田社の祭神は支那の楊貴妃であるが、これを祭るやうになつたのは、唐の玄宗皇帝が我国を攻め滅ぼさんと戦備を整へるのを、早くも熱田神がお知りになり、彼の国にて楊貴妃と生れ代り、玄宗帝に近づいて淫蕩に陥れ、遂にその目的を不能に終らしめたのであると云ふのが概略である。そして此の妖説は、大昔の記録にも見え、且つ相当の学者も信用して来たのであるが、これは楊(やなぎ)氏を称した巫女の伝説から生じた捏造説なのである。
即ち古く熱田社に楊氏を冒した巫女がゐたのが、楊と楊とが国音の同じところから、後世の好事家が附会したものなのである。それは恰も、人麿が火止まると国音の同じところから、歌人の柿本人麿が火防神となつたのと同じ附会なのである。
併しながら附会にせよ、世間で斯うまで、此の妖説を信用してゐたのは、とりも直さず巫女といふ者が、世上から尊敬されてゐた一つの証拠にはなるのである。