郷土芸術として、最も多く性的舞踊を伝へてゐるものは神楽である。神楽は改めて言ふまでもなく、純粋なる神事舞であるだけに、その源流は天ノ磐戸前の、鈿女命の所作に発してゐるほどあつて、性的分量が濃厚に含まれてゐることは当然である。殊に神事舞が、農業祭に取り込まれるやうになつてからは、農業祭の中心となつてゐた類比咒術に習合されて、猖んに此の方面が発達したのである。平安朝に行はれた愛敬祭や稲荷祭は、その代表的のものであつた。和泉式部が藤原保昌に疎まれたので、その愛を取戻さうとして、貴船社の巫女が愛敬祭を行ふと聞き、尋ねて往きその事を頼むと、巫女は神前を飾り種々なる祈祷をした後に、立ち上つて舞ひ、やがて前を裹けて三度たたき、式部にも斯くせよと云ふので式部は顔を染め『千早振る神の見る目も恥しや、身を思ふとて身をや棄つべき』と詠歌して拒絶したとある。更に稲荷祭にあつては飽くぼや乾笠(共に或種の形したもの)をたたいて歌ひ舞ひ、神楽殿に於いて表翁と蛇女とに扮せる者が、始めは艶言を交し、進んで抱擁の所作を演じ、京都の見物人をして、願を解き腸を捻らせたとある。又以てその舞踊が、如何に狂態を極めたかが知られるのである。
斯うした信仰と演出法とを、そのまま継承した神楽に、此の方面の所作が豊であることは言ふまでもない。東京市に近い鶴見の杉山神社に、古くから行はれてゐる、正月十六日に田遊の神事舞なども露骨なものであつて、田歌の末章である『お前などを見たれば、殿のものをさんだいた、心はそつくらめく、開はひつくらめく』を現代語に書き改めたら、唯でも驚かずには居られまいと思ふ。更に同じ東京市から遠くない、赤塚の田舞の如きも、ヨナンザウ(米人の意)とイナンザウ(稲人の意)と称する男女に扮した者が、舞台の真中で公衆の面前をも憚らず、醜態を演じ、見る者をして唖然たらしめる。此の外に三河のテンテコ祭、尾張の田県祭なども主なるものとして、全く数ふるに遑なきまでに全国的に存してゐるのである。更に極端なものになると、神事舞の最中に、女装した踊り手が、分娩の真似をするのさへ各地にある。今一●を挙げて、全鼎の味を知つて貰ふとして他は省略する。