二、求婚手段として行はれた性的舞踊

踊りが男取りである以上は、これが求婚の手段に用ゐられることは当然であるが、然らば如何なる方法で行はれたかと云ふに、それは古い習俗として、各地に在つた●(女偏に曜日の旁)会、歌垣を挙げることが出来る。常陸の筑波山へ春秋の二季を期し、東国の男女が登り集つて『雄山に雲立ち昇り畤雨降り、濡れ遁るとも吾はかへらじ』と謠ひつつ舞ひ踊り、肥前の杵島山にも郷閭の男女が、開花黄葉の季を挿みて登り『霰ふる杵島が岳を険しみと、草とりかねて妹が手を採る』と歌舞楽飲した。そして、是等の歌舞が求婚の目的で行れてゐたことは勿論である。然るに此の求婚法は時勢の降るにつれ、各地方とも独自の形式を固定させるやうになつた。高知県長岡郡西豊永村の柴折薬師は、毎年旧七月六日に例祭を挙げるが、その際には附近数里の男女が参詣し雑闌を極める。そして、夜分になると若い男女が互ひに問答をするが、その問答は何の事でも差支なく、概して男が問ひ女が答へ、段々それが進んで往つて、若し女が答へに窮すると、男の意に従はねばならぬことになつてゐる。これは正しく古い●(女偏に曜日の旁)会、歌垣の名残りであつて、ただ和歌で応酬したのが問答と変つただけである。鳥取県八頭郡赤松村大字諸鹿では、正月元日を始め、一年のうちに幾度も、氏神社へ未婚の男女が集つて舞踊する。尺八と太鼓を楽器とし、踊りは殆んど抱擁せんばかりの、力強いものであつて、踊りながら互ひに意中を語り合ひ、婚約が成立すれば、両親でも異議を言ふことの出来ぬ、定めとなつてゐる。然も此の事は大正期まで行はれてゐた。静岡県榛原郡川根村と、その隣接せる志太郡伊久身村の地方では、毎年旧正月七日夜から八日朝にかけて、若い男女が集り火踊りをする。歌詞は、●(女偏に曜日の旁)会の流れを汲んでゐるだけに、問答体になつてゐて、男が『東山から西山へ、青い女の影がさす』と謡ふと、女が『青い女の影ではない、青い衣物をきた殿だ』と応じ、踊りつ歌ひつするうちに、男女の意志が投合すれば、それで婚約が成立するのである。昔は男が結婚の申込みをすると、女の親は火踊りで約束したかと問うたほどで、此の約束なれば異存なきものとされてゐたのである。愛知県額田郡山中村大字池金では毎年春季にオヤマと称し、未婚の男女が盛装して、山行をする風習がある。此の日、若い者が想ひ想はれて夫婦約束すれば、父兄は必ずこれを承認せねばならぬことになつてゐた。それほど手重いものとされて居ただけに、此の日に婚約の出来なかつた男女─殊に女子にあつて誠に惨めなもので、村人の笑ひ草になるゆゑ、父兄も心配して、近頃では山行の前に内約させたり、又は他村の若い者を養子の名義で村人となし、山へ行けば間違ひなく婚約の出来る様に、外部から仕組む者さへあるが、ただ何等かの手続きで村の者とならなければ、オヤマ仲間にせぬことになつてゐる。斯うして婚約した男女は、差障りさへ無ければ、秋の氏神祭の頃は結婚式を挙げるのである。これなども、永い星霜を経る間に幾分の変化があり、歌舞することが忘却されてゐるが、それでも猶古い●(女偏に曜日の旁)会の面影を偲ぶことが出来る。

茨城県大子町附近の村落では、明治十三四年頃までは毎年旧四月八日に、若い男女が楢ッ葉扱きと称して山林に入り、おのがじし相携へて意中を語り合ひ、それが纏まれば夫婦の契約が成立するのである。三十年ほど前の中流以下の夫婦は、此の楢ッ葉扱きで情意投合した者が、多きを占めてゐたと云はれてゐる。秋田県仙北郡地方では旧正月十五日夜に、未婚の男女が集つて互ひに歌詞を唱和するが、それは大葉子節、馬曳節などであつて、此の夜に綱引が行はれるが、男女の間に交際が許されてゐる。そして、四月八日にも諸方の神社へ参籠する多くの男女が、掛け歌をなし婚約する。秋収の集りにも『八皿』又は『荷縄外し』など称して、盛んに酒宴を催し、男女が雑魚寝する。そして、是等は昔の●(女偏に曜日の旁)会の形の崩れたものだと報告されてゐる。和歌山県日高郡白崎村大字神谷浦で、陰暦の盆踊りの最中に、相思の男女は婚約する風がある。此の約束が出来ると、後で他家からその女を貰ひに来ても、身代や身分がどうあらうと、盆踊りで約束したと断り、一方、断られた者も、盆踊りで約束した仲ではと云うて、引き退がるのを常としてゐる。全体、盆踊りは後世になると、半ばは精霊を慰めるやうな、半ばは村民の娯楽になつてしまつたが、古くは和歌山県のそれの如く、●(女偏に曜日の旁)会系に属した求婚が、主たる目的であると考ふべきである。