六、農婢の貞操を盗むは概して主人

江戸時代にあつては、人間の好奇心に等級を付けて一盗、二婢、三後家、四妾、五妻と云ふていた。これから見るも如何に農婢の貞操が、危険なる地点に置かれてあつたかが知られるのである。巣林子の書いた大経師昔暦は、主人の以春が妻おさんの眼を偸んで、下婢お玉の貞操を汚さうとしたために起つた悲劇である。そしてお玉がおさんに主人以春の暴状を語つて『妾にきつう惚れたとて、隙さへあれば抱き付いたり袖引いたり。暇を取って此処を出よ、余所にそつと囲うて在所の親も養はう、小袖やらう銀やらう。うるさやいやや聞きともない事ばつかり(中略)。よその夜咄にわざと夜ふかして、表の男部屋の二二ににか此の屋根伝へにあれ、あの引窓の縄をつたうて、わしが此の寝所へ、大方毎夜さござんする』と言うてゐる。併し斯うした事実は此の事件ばかりでなく、全国を通じて行はれてゐたのである。

それでは農婢(又は下婢)の貞操は、主人の蹂躙するに任せて、為政者はこれを不問に附して置いたかと云ふに、必ずしもさうではなかつたのである。勿論、江戸時代に於ける主人の権利は、その雇人に対しては強大であつたことは事実であるが、さればと云うて全く放任してゐた次第ではない。宝永七年の上州前橋藩の法度には『御家中召仕の男女、親も存ぜず夫婦の契約致候者、密通同然の仕置に仰せ付らるべく候事』とあるのは、(黒潮三十二ノー所引)不義を警めた武家にあつては当然の事である。

併しながら武家以外(武家でも下婢を妾としても差支ないと云ふ例もあつた)の農商家にあつては、下婢は主人の支配に属してゐたのである。未見の書であるが板倉政要(京都所司代勝重父子関係の記録)巻七(私の見た日本経済大典には巻四までしか無い)によると『伊賀殿仰ごとには、総じて奉公人は男女ともに、禄のために身命を売るものなれば、殺害せられても主人心次第相計ふことなるぞ、況や目をかけて懐妊することは無二是非一ことなり(中略)。是より以後は下女に目を掛けること気遣なしと、京童大悦しける』と載せてあると云ふから、(国家学会雑誌四一ノ七所引)他は以て知るべきである。

江戸期の川柳点の狂句に詠まれた下女(農婢も含む)と主人との関係は、私の此の記事の旁証として捨て難いものがあるので、左に少しく抄録する。

飯焚に婆アを置いて鼻あかせ(柳だる第一編)女房の目のいそがしい下女を置き(同上)

懲りたやら今度の下女に沙汰がなし(同上第三編)お前よく下女をと後のむづかしさ(同上第十一編)

転婆下女寝所へ薪を一本もち(同上第四編)下女を直すにつき縁者二人そり(同上)

わるがたい下女君命をはづかしめ(同上第六編)出来た下女井筒ノ前と嬲られる(同上第十二編)

他に事をよせて半途に下女を出し(同上第七編)若旦那様とかいたを下女おとし(同上)

こはがつて下女新造のそばに寝る(同上)いやならばいいか女房にさう云うふな(出典失念)

外聞のわるさ女房と下女が論(同上第八編)下女ひとり当り障りで蔵に寝せ(柳だる第三編)

以上の川柳は、別段に註釈を加へずとも、句意の在るところを知るを苦しまぬが、ただ最後の一句にあつては多少蛇足を加ふべき必要がある。

現今では居爐裡の座席も、寝間の作法も崩れてしまつたが、江戸期の物堅い農商家にあつては、中中厳重にこれが守られてゐたのである。爐の座席に就いては今は略すが、寝間にあつては其の家の長男は座敷に寝る権利があつたが、次男以下は下屋(土地によつてタナギとも云ふ)に寝ることに定めてあつた。下婢も亦その通りで、定まつた部屋を与へられてゐたのであるが、大経師の以春のやうな主人が、彼の女の貞操を盗まうと押しかけるし、又は番頭や手代が本居翁もどきに夜襲に出かけるので、物堅い家では天井に引ツ付けて高く部屋を作り、そこへ下女を寝せ、下女は部屋へ上ると梯子を引いてしまひ、誰でも昇ることが出来ぬやうにしたものである。斯うして『下女の部屋夜半には君がひとり往く』ことを防いだのである。然るに此の特別の下女部屋の無い家では、蔵に寝かして家内の平和を保つたのである。柳句は即ち此の実情を詠んだものである。

農婢の貞操問題に就いては、まだ記述せねばならぬことが多く残つてゐる。第一は農婢が生んだ子供を社会は如何に取扱つたか、第二は農婢の解放される手続はどうであつたか、併し是等の問題は、やがて執筆すべき「支配者の有せる殿の権利」において説明したいと思うてゐる。猶ほ琉球に於ける農婢の資料も集めて置いたが、それを言ふと余りに長文になるので擱筆する。