第二の農婢は、その一生を主家に買はれたものである。勿論、江戸期に於いては、人身売買に堅く国法の禁じたところではあるが、因襲の久しきより各地にこれが行はれてゐた。就中、有名なのは日向国であるが、これに関しては橘南渓の西遊記巻四に左の如く述べてある。
日向辺の農民、富有なる者は、一生買切にしたる奴僕を多く持てり。いかなる事ぞと問ふに、米良、五箇、その外この近国の山中より出る奴僕の親たる者へ、塩一俵、米五升ばかりを与へて、其子を一生ふつつに買切る事なり。山中の者は賑なる地へ出る事を楽みとして、親たる者も子の出世する事のやうに覚え、子たる者も悦びすすみて出るなり。かくの如くして、一生を買切たる奴僕は、たとへ打殺しても其主人の心任せにして、親元より一言の怨み云ふ事なし。男女ともに此通りの奉公人甚だ多し。田地多く持たる農民は、多く召抱へ置くゆゑに、その者ども私に通じて出生する子をも深くは禁ぜず、主人よりも厚く世話して養ひ育つるなり(中略)。主人家の娘を嫁せしむる時には、必ず此の婢女を添へて遣すなり。もし其奴僕主人の気に反く時は主人の心次第に売払ふなり云々。
此の日向国に行はれた習俗は、古く奈良朝に在つた奴隷制度そのままとも云へるのである。然るにこれとは事情を異にし、窮民の子供を振売りにする地方もあつた。日本奴隷史によると江戸末葉の横浜へ、幼兄を籠に入れ天秤棒で担ぎ『子供は要らぬか』と売つて歩いた者があつたと記してあるが、これは一時の変態的の出来事であつて、従つて習俗とか制度とか云ふことは出来ぬのである。これに較べると福島県石城郡地方に行はれた人身売買は、立派な習俗と見るまでに発達してゐたのである。民族(二ノ六)に左の如き記事がある。
明治こ十五六年頃、山形県の最上から人売り婆さん、俗呼んで最上の鬼婆と称する者が毎年来て八九歳から十二三歳までの少年少女を、ちやうど馬喰が馬を牽いて来るやうに連れて歩き、時には逃げられぬやう麻縄で、珠数を通したやうにして引張つて来た。徴兵検査までと云ふ約束で、給金(一時払ひ)は身体年齢によつて高下はあつたが、大抵十四五円以下七八円以上であつた。小さなうちは子守をさせ、大きくなると農仕事に使つたが、村では之を最上子又は単にモガミとも謂つて賤しんだ。多くは寝小便をして困つたものである(中略)。福島県で中通り地方、即ち郡山附近の村落では、主として越後方面から来たやうであつたが、之を買ひ子と呼んでゐた。それは何時頃まで続いたものか確には知れぬが、私の家では明治廿七年の一月に買つた最上子が、同卅七年の十こ月まで居た。即ち丸十一年で年明けになり、一且郷里に帰つたが、又出て来て今は此堆方で働いてゐる(中略)。当時の年季証文を出して見ると、年季奉公前借証とあつて、一金八円也、但し本人仕度金及び諸費として、正に前借仕候云々。本人は其時九歳であつた。終りに明治廿七年一月廿七日、山形県山形市大字旅籠町五四九、雇人受宿会田リヨ、営業人元木モヨ印。即ち此のモヨ女こそは所謂最上婆であつた(高木誠一氏寄稿)。
高木氏の記事によると、此の人売り婆さんの去来は、明治年間に始められたやうに見えるのであるが、これは私が改めて言ふまでもなく、江戸時代からの習俗が明治時代まで、引続いて行はれたものと考へて差支ないやうである。
第三の農婢の質奉公にあつては、殆ど全国的に行はれたものだけに、その資料も各地に亘り相当に存してゐるが、茲には記事の簡明を欲するところから、一二の奉公証文を掲げ、これに多少の説明を加へることとした。
桶畑雪湖氏所蔵文
志田村(中山曰。山梨県)辰の御年貢につまり庄太郎譜代のけさと申候女、身代として甲判貳両□□借用仕、辰の暮より未の暮まで三年季に売り置き申候事実正也、此者に付ては誰人成共□□分無、何時もまかり出可申分候、自然夫に於て身代五割添金にて弁済可申候、失せ隠れ悪しき心など候はば尋ね出し返し可申候、永らく見え不申候はば右の同然に弁済可申候、御国替へ人返し如何様の新御仕置出来候共、右年季の通り御奉公勤め可申候間、身代金貳両三朱済し申候はば、相違なく御暇可被下候、右後日手形如件(中山曰。仮名を真字に書き改めた処がある)
寛永五年たつ十二月十二日
志田村
庄太郎(判)
八左衛門(判)
佐五右衛門(判)
五衛門(判)
坂田与市衛門様
此の証文は、売主庄太郎が譜代(農婢であつて他国の庭子と同じ)の女けさと云ふ者を、三年間質奉公に入れたものであるが、けさ女は当時庄太郎の妻になつてゐたので、証文の『夫に於いて身代五割添金』すれば、解放されると云ふ約束なのである。更に『国替へ人返し如何様の新御仕置』とは、室町時代に猖んに行はれた徳政(貸借を無効にする法令)から派生した、一種の雇人解放が行はれても、決して雇主に迷惑を懸けぬと、損害賠償の予約をしたのである。そして是れは人妻であるから、貞操は問題とならぬが、今度は娘の質奉公の証文を載せるとする。
我等娘上納ニ差迫リ質奉公ニ召置、身代銭請取申書物事
一、元銭四百目(六拾銭なり但し貳割り)
右之銭受取申候処、相違無御座候、然上ハ当午の年より、申二月二日迄、丸二ヶ年之間、貴殿方へ質奉公に召置候条、昼夜御奉公可仕候、尤仕着之儀は、御家御仕来に被成申可候、御家法不背相勤め候はば、一ヶ年給米六俵あたり、其秋米値段に而右之元利之内より御引可レ被レ下、年季無レ滞相勤め候はば、相残り元銭相立、御隙可申受候、若年季之内、無情を構へ候敷、又は取盗迯走り、不身持一切悪敷き事御座候はば、請人証人より、貴殿方少茂御難儀掛け申間敷候、年季之内御気に入不申節は、何時に而も御隙可レ被レ遣候、早速身代銭請人証人より相立可申候、万一無拠此方より御隙申受候はば、身代銭相立、御暇可二申受一候、為レ其請人庄蔵伝吉加判被致候上、村役人乗中御奧印申受(中山曰。村役人の奧書は省す)、相渡置候上は、毛頭相違無御座候、為後年請状如件(歴史地理五十四ノ六所載)
寛政十午二月 身売主はま
請人 庄蔵(判)
証人 伝吉(判)
親 新助(判)
あらものや善右衛門殿
これは福岡県宗像郡の一例であるが、他の国々の質奉公も証文面は同じ様なものである。そして此の証文で問題となるのは『昼夜御奉公可レ仕』と、他の『無情を構へ』の文句の解釈である。某学者はこれを以て直ちに農婢の貞操を意味するものだと言うてゐるが、私には賛成することが出来ぬ。これは昼夜ともに油断なく仕事に勉める意で、無情云々は取盗み迯走りの不人情を指したものである。私の寡聞によれば売笑を目的とした飯盛、又は遊女の証文を見ても、貞操を売る事を文字に現はした例は無いやうである。猶ほ年季奉公と質奉公との差別を記すべきであるが、それにも及ぶまいと思うて省略した。