江戸時代に於ける農婢は、大体に於いて三つに区別することが出来る。第一には庭子(ニハコ)と称するもので、これは古い奈良朝の奴隷系統に属してゐる。第二は親達が困窮なるがために農家に買はれたもの、第三は奉公人と称するものであるが、これには年季奉公と質奉公との区別があつた。私は此の順序を追うて農婢の貞操の行方を、突き留めて見たいと思ふのである。
第一の庭子に就いては、土地によつて名称を異にしてゐるが、駿国雑志巻廿一の記事がやや詳細であるので先づこれを引用し、その概念だけを知つてもらふ事とした。曰く、
村老伝へ云ふ、当国(駿河)百姓の本家を親家といひ、その末家を(或は云ふ分知)家徒と云ふ。その隠居して別家に住む、これを新家と云ひ、或はその従者より出て百姓となる、これを譜代と云ふ(狡雑物語に云ふ、田舎には男女媒人なしに××して持てる子を庭子と云ひて譜代とす)その扱ひ家従と同じ。また水呑、庭子(或は寄子とも云ふ)等の分ちあり。その本家たる者は必ず草創の旧家にして、これを芝切と云ふ(中山曰。他国の草分百姓と同じ)。悉く屋敷相伝の田地(或は是を家地田とも云へり)あり、水呑、譜代は此田地無し、故に富むと云へども賤しとす云々。
これに拠ると駿河では、農家の男女が私通して儲けた子を、庭子と云うたやうに聞えるが、これでは説明が不充分であつて、その男女は農奴として古くから代々その家に買はれて来た者で無ければならぬのである。そして此の庭子は、越後では名子と云ひ、長野では坪子(坪は庭の意で、坪子は後に転じて私生児の意となる)と称し、豊後では庭の者と云うてゐた。かくて此の庭子は、主家の好意で解放せらるるか、又は自分から相当の身代金を出して主家を離れると、水呑百姓として半独立の地位を得るのである。此の身代金の多寡は国々に於いて異つた定めがあるも省略する。
そして是等の庭子─殊に女子の支配権は元より主人にあつたが、江戸期になると一般の道徳心が、幕府の教化政策のために多少とも向上し、且つその初期にあつては主人と云へども猥りに農婢を犯すことは禁じられてゐたので(此の掟は中期に弛んだのであるが、それに就いては後に述ベる)、表面的には農奴同士で私通したものである。これを証明する資科が牟婁(和歌山県)口碑集に、左の如く載せてある。
亥ノ子の晩には宵からお出で、棚事しまうたら濡れ手でお出で(同地方の俚謡)
南方熊楠先生よりの書面に『昔ハ大百姓ノ家ノ子ナドハ、奴隷同様ノモノニテ、奴隷同様ノ者が蓄殖セヌ卜、働キ仕事ヲ為ルモノ無クナリ、大百姓ハ大ニ困ル、故ニ代々働キ男女ヲ私合セシメ、其ノ子ガ又奴隷同様ニ大百姓ニ仕ヘシナリ、ソレモ無茶ニ私合サシテハ悪イ故、亥ノ子ノ晩ダケヲ限リ私合セシメシナリ、故ニ天下晴レテノ私合ノ晩ナレバ、仕事サヘ済マバ早ク来タレ、濡レタ手ヲ拭カズニ、急ギ来イ卜女ノ方ヨリ男ヲ招ギシ意ナリ』との示教があつた。
古く亥の子の晩に夫婦合衾する習俗のあつた事は、巣林子の天の網嶋の女房おさんの詞に『一昨年の十月中の亥ノ子、炬燵開けた祝にと、これ此処で、枕並ベて』とあるのでも知ることが出来るが、農婢の性の解放に就いては国々によつて時処を異にし、必ずしも亥ノ子の晩とは限られてゐなかつた。学友高木誠一氏の高示によると、福島県石城郡地方では農婢のことをコメロ(小女郎)と云ひ、その貞操は殆ど主人によつて支配されてゐたが、年に一回、正月十四日の夜だけは『天下のお許し』だと称して、性の解放が行はれたと云ふことである。更にこれは農婢ではないが、司馬江漢の西遊晝譚によると尾張の名古屋では、七月十六日に徳川家に仕へてゐる女中が町に出て異性を迎へた。これを藪入と称し(中山曰。藪入の原始形態に就いては、別に本書に掲載した)、閨中娼婦よりも密なりと記してある。また旧鹿児島藩門割制度と云ふ書によると、同藩領の農民は毎年正月四日を以て『仕度い放題』の日と定め、此の日だけは何をしても差支なかつたと載せてある。斯うして農婢の生んだ子が庭子となり、やがて解放せられて百姓となつたのである。明治の初期まで保存されてゐた山形最上郡の名子百姓、長野県伊那谷の被官百姓、徳島県祖谷の門前百姓などは、みな庭子の後裔であつた。