三、人身売買の対象としての農婢

平安朝に入ると、奴婢法の運用は弛み、奴隷制度も崩れて来たが、併し形態を変へて新しい奴婢制度が工夫されるやうになつた。それは歴世の朝廷が、人身売買の非道なるより、これを禁止する法令を雨の如く下したので、表面は人身売買を避けるために質奉公として、事実に於いては人身売買と少しも渝らぬ非道を遺つてゐるのである。曾て佐野学氏が『とにかく賤民制度は、いつしか平安朝に於いて無くなつてしまつた。これは社会的進歩である。併し半面に於いて、同時に自由なる農民が農奴に堕して往つた悲劇を忘れてはならない。労働力を搾取すベく農奴が発生して来たから、法律的組織としての奴隷は無くなつたのである』と言はれたのは、よく此の過程を説明したものである。従つて此の時代に於ける農婢の貞操などは、主人の蹂躙に任せて問題とされなかつたであらうが、斯うした事実は独り農婢の下層級ばかりでなく、門地の高い者の間に行はれてゐた。古事談第四に左の如き記事がある。

源頼義、御随身兼武とは一腹なり。母は宮仕への者なり。件の女を頼信愛して、頼義を産ましむ云々。その後兼武の父、件の女の許なりける半物(中山曰。下婢なり)を愛しけるに、その女、己れが夫、我に返せまとて進みて密通の間産みたるなり。頼義この事を聞き、心憂き事なりとて、永く母を不孝(中山曰。後世の義絶と同じ)して、失せて後も、七騎の度乗りたる大葦毛が忌日をばしけれども、母の忌日をばせざりけり云々。

鎌倉時代になると、主従関係の道徳がやや確立して来たので、農婢の貞操どころか、その生命まで主人の自由であると云ふやうに考へられてゐた。それと同時に農婢や下婢の方でも主人に近づき、あはよくば氏なくして玉の輿に乗らうと云ふ、甚だ宜しくない利己心を抱くやうになつた。そして斯うした傾向は双方の歩み寄りとなり、醜声の門外に漏れることも決して稀ではなかつた。藤原定家の日記である明月記の、正治二年正月三十日の条に左の如き記載がある。

今日聞くとこるによれば、三位藤原雅隆の妻死去す。病は嫉妬より起ると云々。半物(はしたもの)わかつまを三位自ら愛するの間、深くこれを悪み、飲食も通らず、漸く病となり遂に終る(原漢文)。

当時、人身売買─殊に女子を誘拐して売買する事が猖んに行はれたので、鎌倉幕府では法令を以て、是等の非道をなす者は、顔に烙印を当てると沙汰したが、それでも犯罪が続出するので、遂に誘拐によつて売買された者は、本人の意志に任せ自由を与へよと、解放令まで出して取締つたが、まだ此の禍根を剿絶することが出来なかつたのである。斯うして売買された女子の身の果こそ、実に涙なくては聞かれぬやうな哀話を残してゐるのである。今昔物語巻二十六に次の如き話が載せてある。

今は昔、□□国□□郡ニ住ケル人有ケリ。其家ニ年十二三歳許有女ノ童ヲ仕ヒタリ(中略)。女ノ童身ニ病ヲ受ケテケリ(中略)。日頃ヲ経ルママニ病重カリケレバ、主此女ノ童ヲ外ニ出サントスルニ、童ノ云ク、己ヲ人離レタル所ニ被レ出ナバ、必ズ此狗ノタメニ被二昨殺一ナントスル。

病無クシテ人ノ見ル時スラ、己ダニ見ユレバ只昨懸ル。何況ヤ、人モ無キ所ニ己重病ヲ受テ臥タラバ、必ズ被二昨殺一ナン。然レバ此狗ノ知マジカラン所ニ出シ給ヘト云ケレバ、主、現ニ然ル事ナリト思テ、遠キ所ニ、物ナド皆枯テ、密ニ出シツ云々。

主人の冷酷なる措置を恨みず、せめて狗の来ぬ所に棄てられたいと冀ふ少女の心こそ、誠に酸鼻の極みである。更に沙石集によれば、鎌倉に住める有徳なる町人が、元日の朝に下婢が南無阿弥陀と唱へたのを不吉となし、銭を火で焼き、それを頬に当てて懲した事件が記してある。此の当時に於いては農婢の貞操などは、恰も野の往ずりに路傍の花を摘むより容易に扱はれてゐたのである。古今著聞集巻十六に左の如き珍談が載せてある。

外宮権禰宜、度会の神主盛広、三河国なる女を妻にしたりけるに、かの女が使ひける者の中に筑紫の女ありけり。それ此の盛広心かけて、隙もがなと思ひけれども、頼り悪くて空しく過ぎけり、或時、思ひかねて妻に向ひ言けるは『申すにつけて、その憚りあれども(中略)、そそ筑紫の女、我に逢せ給へ、耐へ難く床しき事侍り』と云へば、妻の答ふるやう『強もに春色の良きにもなし(中略)何事の床しくて、斯く宣ふぞ』と云へば、盛広『いまだ知り給はぬか、××は筑紫××とて、第一のものと云ふなり』と云ひけるを聞きて、妻『世に易き事なり、されど宣ふこと誠ならば、不定の事なり、××は伊勢××とて、最上の名を得たれども、御身のものは人知れず小さく弱くて、あるに甲斐なきものなり。筑紫の女のものも嘸あらん、此事思ひとまるべし』と云ひたりければ、盛広口を閉ぢて云ふ事なかりけり。

室町時代になると、国政が地に堕ち倫常が紊れただけに、此の種の事件は到る所に展開され、寧ろ多きに苦しむほどである。略人を取扱つた謡曲や伝説、その代表的のものは、前者にあつては自然居士、後者にあつては安寿厨子王、共に少女が人買の手に苦しめられる物語である。これに加ふるに週期的に襲来する飢饉は、戦乱に疲れた農工の窮民をして、子女を売つて急を凌ぐより外に方法無きまでに、困憊のドン底に陥れたのである。左に二三の記録から子女を売つた実例を抄出する。

南路志巻十三

アマ女譲与所従之事

合貳人者

一人字アツマ廿四歳

一人子シヤカ鬼年

右侍所従者、アツマ女重代相伝所従也、然子息専当兵衛允限二永代一讓与所事明白也、至二于後々将来一不レ可レ有二他人妨一、仍為二後日沙汰一所二譲与一之状如件

康永二年三月十日

専当兵衛允

日本奴隷史(第八章)

天文・永禄の比には、駿河の富士の麓に、富士市と称する所謂奴隷の市場ありて、妙齢の女子を売買し、四方に輸出して遊女にする習俗ありき云々。

信長記巻十二

天正七年九月廿八日、下京馬場町門役仕候者の女房、あまた女をかどはかし、和泉の堺にて日比売り侯、今度聞付村井春長軒召捕糾明候へば、女の身として今迄八十人ほど売たる由申候、則ち成敗也。

是等の乏しき資料より推すも、人身売買は殆ど公然と行はれたやうであるから、子女を質奉公に入れるなどは尋常の茶飯事であつたと見るベきである。そして是れが徴証も相当に存してゐるが、それまで述ベると次の江戸時代の紙幅を余りに狭めるので、今は総てを割愛することとした。