我国の奴隷なるものは、殆ど開国の大昔から存在してゐたのであるが、これが社会の一階級として、法律的に規定されるやうになつたのは、実に奈良朝からの事である。勿論、我国の奴隷制度は、支那のそれを輸入したものではあるが、私が茲に述ベようとする農婢も、当時にあつては私奴婢の一種として取扱はれてゐたのである。奴隷の階級とか種目とかに就いては、今は一切を省略して、単に農婢だけに関して言ふが、是等の農婢は全く牛馬と同視され、畜産として売買されたものである。それ故に一度農婢が買はれて主人の所有物になると、他の牛馬と少しも異ることなく、生涯その家で労働しなければならなかつたのである。従つて生殺与奪の権とも主人の手に握られてゐて、絶対に服従を強ひられたものである。
殊に奴隷は、その階級の者以外には婚嫁することは、国法を以て禁じちれ、若しこれを犯すと罪科に処せられたものである。農婢も奴隷である以上は、当然この国法によつて賤民同士で、性生活をすることを余儀なくされてゐたのである。
斯うした時代に於ける農婢の貞操などは、殆ど問題となることなく、その所有者たる主人の支配に属してゐたのである。勿論、国法では良民と賤民との通婚は禁じてはゐるけれども、いつの時代でも男女の関係だけは例外が多く、姿色ある農婢は主人の枕の塵を払はせられたものである。正倉院文書の天平勝宝二年正月の奴隷寄進の証書の一節に、左の如き記載がある。
但馬国司解 申進上奴婢事
奴池麿呂 年廿四。唇上黒子 価稲玖佰束
右出石郡少坂郷戸主従七位下宗賀部乳主之奴
奴糟麿呂 年廿四。右日後疵 価稲玖佰束
右同郡穴見郷戸主大生直山方之奴
奴藤麿呂 年十五。鼻左辺黒子 価稲捌佰束
右同郡同郷戸主土師部美波賀志之奴
婢田吉女 年十九。左頬黒子 価稲壱仟束
右朝来郡桑市郷戸主赤染部大野之婢
婢小当女 年十七。頸右黒子 価稲玖佰伍拾束
右二方郡波大郷妥女直戸主玉手女之婢
是等五名の奴婢は、その主人が善根のため奈良の東大寺へ寄附したものであるが、此の証書で注意しなければならぬ点は、男奴よりも女婢の方が高値に売買されてゐると云ふことである。即ち男奴は働き盛りの者が、稲八百束(当時は稲一束は米五升の定め、それで奴婢の値段の凡そが知れる)売買されてゐるにかかはらず、女婢がそれ以上の高値で取引されてゐるのは、その使用の目的が主人の寵愛にあつたことが推知されるのである。
猶この機会に併せ考ふベきことは、奈良朝時代に於いては農民が金銭を借入れる場合に、債権者に対し債務者は、自分の妻または娘を抵当として差入れ、一種の質物とすることが法律で許されてゐた点である。そして若し債務者が約束を果さなかつた際は、債権者は抵当の婦女を随意に拉し来たり、これを一日幾らと時価の労働賃銀に換算し、その賃金額に充当するまで、三年なり五年なり、強制的に使役する権利を有してゐたものである。そして此の事を証明する古文書は相当に残つてゐるが、斯うした債権者に使役された婦女の貞操が、その期間中は債権者に支配されてゐたことは想像に難くない。それは迥に時勢の降つた後世の習俗かち見るも、斯く言ふことが出来るのである。
奈良朝の末頃に作つたと思ふ催馬楽の唄に下の如きものがある。
挿し櫛は、十まり七つ、ありしがと。
武生の櫞の、朝にとり、夕さりとり。
取りしかば、挿し櫛もなしや、さきんだちや。
此の唄は、越前武生の櫞─即ち当時の郡司の誅求のために、少女の押し櫛まで納税の代りに、失ひしものと説く学者もあるが、私としては橘守部の研究に従ひ、郡司の漁色に苦しめられた、少女の悲鳴と信じたいのである。更に詳言すれば、恰も江戸時代に於いて、農民が納税を怠るときは、郡奉行または代官は、農民の妻なり娘なりを役宅に拉へ来たり、そして枕席に侍らせたと同じやうに、武生の郡司が少女を伐性の料にしたのであらうと考へるのである。
奈良朝時代に於ける農婢の労働が、如何に苛辣のものであつたかを証拠立てる記録は、今に夥しきまでに残されてゐる。私が改めて言ふまでもなく、当時の農業と云ふものは、殆どその総てが賤婢によつて営まれてゐたのであるから、農婢こそは全く文字通りに、曉に星を頂いて、夕には月を負うて家に帰る耕作をつづけ、更に機織とか藁仕事とか々科せられ、寝る目も寝ずに追ひ遣はれたものである。万葉集に『稲春ば皺る我が手を今宵もか、殿の若子がとりて嘆かむ』とあるのは、農婢の労働苦と併せてその貞操の支配者が、主人にあつたことを詠じたものであつて、更に同集に『押して否と稲は春ねど浪の秀の、いたぶらしさよ昨霄一人寝て』とあるのは、同じく農婢の惨憺たる境遇と、性生活の不満とを訴へたものである。