一、人間味を発揮した本居翁

国学の大家、本居宜長翁といへば、今日では伊勢の松坂町の岩宝山に、神として祭られてゐるが、その本居翁の内弟子に斎藤彦麿と云ふ人があつた。此の人は相当の国学者であつたが、先年、林若吉氏が此の彦麿自筆の日記を講読され、本居翁の日常生活に就いて二三の話を試みられたことがある。然るにその一節に、如何にも人間としての本居翁の真骨頂を想はせる珍談があつた。その概要を述ベると左の如きものである。

彦麿が或る朝のこと、他の二三の内弟子と共に、朝飯を食ベながら『本居先生こそ、本当の活神様と云ふのだらう、学問と云ひ人格と云ひ、アレが本当の活神様だ』と云ふと、同じく朝飯を食ベてゐた他の内弟子が箸を休めて『本当に活神様だ、日本広しと云へども宅の先生に上越す活神様はあるまい』と相槌を打ち、頻りと本居翁を活神様扱ひにしてゐると、傍らに給仕してゐた下婢が、何を感じたか急に潜然と泣き出した。彦麿が不思議に思つて『何で泣くのか』と訊くと、下婢の返辞が実に振ツてゐる。曰く、『その宅の活神様が年甲斐もなく、夜になると毎晩のやうに私の許へ遣つて来るのです。昨夜も遣つて来ましたので、余り五月蝿ので足で蹴飛してやりました。活神様を足げにかけたので、私は屹度神罰が当ると思うて悲しくなりました。』とのことに、彦麿を始め他の内弟子達も、暫くは開いた口が塞がらなかつたと云ふことである。

神に祭られてゐるからとて本居翁も人間である。斯うした半面があつたとしても、それは決して不思議でも何でもない。翁が若年の折に医学修業のため京都に遊学してゐた時分には、かなり宮川町辺の妓楼へ出かけたやうであるから、アノ吉事記伝を大成した絶倫なる精力の点から云へば、斯うした事のあるこそ寧ろ当然だとも言へるのである。

私は此の話を林氏から承つて、直ちに思ひを俳聖松尾芭蕉の身の上に奔らせて見た。芭薫は壮年のときに、兄嫁と道ならぬことをしたのが脱藩の原因だと云ふ異説もあるが、これは元より信用すベき限りでない。それと同時に芭蕉に定まつた妻とか妾とかが有つたことも、当時の記録からは明確に知ることが出来ぬ。各務支考の露川責によると、芭蕉と婦人との関係を考へさせるものがあるも、併しこれとても有力なる資料ではない。それを明治になつて沼波瓊音氏が安芸の俳人風律の日記に、芭蕉に妾の有つたことが載せてあるのを発見し、『南無芭薫様、ようこそ妾を持つてくだすつた』と、躍りあがつて悦んだと云ふことであるが、ただ私には此の言を遷して『南無本居様、ようこそ夜這をしてくだすつた』と嬉しがるだけの感激を持ち合してゐぬのである。

明治の俳聖と云はれた正岡子規と、婦人の関係に就いても、また伝ふベき逸話がある。私は明治の終りから大正の初めへかけ、丸三年と云ふものを子規の伯父である故加藤拓川先生を、社長として仰いだことがある。その時分の私は、子規は三十六年の生涯中に、恐らく婦人を知らずに死んだものであらうと信じてゐたので、或る時この事を拓川先生に語ると、先生は軽く『常規(子規の本名)だつて木の股からでも出やすまいし』と受け流されてしまつた。然るに二三年前に子規と厚誼のあつた古島古一念翁から聴くと、子規は古島翁に連れられて吉原を始めとし新宿、板橋、千住などで遊び、更に日清戦役の際には相携へて従軍することとなり、遠く尾の道の妓楼で遊んだことさへあると云ふので、私は自分の迂闊に驚いたものである。子規に関する珍談は又の機会に譲るとして、詳細はここに省略するが、此の事なども今のうちに記に残して置かぬと、百年の後に沼波瓊音氏のやうな感激家が出て、徒らに詮索させるのも気の毒だと思ふからである。

私は、斯うした取りとめもないやうな事を考へてゐたので、何時かその事を秋田県出身の友人橋本実朗氏に語り、『どうだ面白からう』と云ふと、権本氏は案に相違して『本居翁が下婢の許へ夜這に往つたなんて、少しも面白くも何とも無い。秋田県などでは明治の初年までは、下婢の貞操と云ふものは、その主人が支配するのが当然であつた』と聴かされて、今度は私が開いた口が塞がらぬと云ふ始末であつた。

私は此の橋本氏の話からヒントを得て、多年に渉り各地の農婢の貞操の行方に就いて資料を集めて来たが、昨今漸く一文を草するだけに纏つたので、茲に稿を起して見た次第である。ただ一言して置かねばならぬことは、此の問題たるや極めて簡単であるやうに見えて、事実はこれに反して頗る複雑し、且つ歴史においても千二三百年の大昔にまで溯ることが出来るのである。従つて事実の消長を克明に記すとなると、勢ひ考証に陥り肩の張るやうな小理窟を並ベなければならぬこととなる。併しそれは本誌の読者の迷惑するとこると考へるので、今は詮索よりは興味に重きを置くこととした。説いて詳しからず論じて尽きざる点もあるが、遍へに賢諒を乞ふ次第である。