十月の亥ノ子(土地により初の亥と中の亥とを用ゐる差別がある)の祭は、単純なる秋祭では無いが、性的の行事は相当に伴つてゐる。亥は多産の動物として平年には十二匹、閏年には十三匹の子を生むと称され、その多産に肖似るやうにと大昔から祭られでゐる。そしてその行事は子供が集つて、新藁を束ね芯に新芋の殼を入れて藁鉄砲なるものを造り、それで地上をたたきながら「亥ノ子の晩に餅くれぬやつは、鬼生め蛇生め」と囃し、家々を廻つて餅を貰ふのであるが、昔は此の夜は夫婦は合衾すべきことになつてゐたので、それは恰も五月に蚊帳を釣り始めた晩と同じであつた。巣林子の天ノ網嶋に女房おさんの詞として「一昨年の十月中の亥ノ子、炬燵あけた祝ひとて、これ此処で、枕並べてそれからは、女房の懐には鬼が栖むか蛇が栖むか」とあるのがその一証である。

更に和歌山県の村落には「亥ノ子の晩には濡れ手でお出、棚事しまうたらそのままお出」と云ふ俚謡が残つてゐる。此の俚謡の意味は、昔は農村の大百姓になると二人三人づつ半奴隷的の雇人(土地によつては庭子とも名子とも云ひ、沖縄では膝素立と称した)を抱へて置いたものであるが、平生は異性と交際することを厳禁したが、亥ノ子の晩だけはそれが許されてるたので、斯くは棚仕事(炊事)が終つたら濡れ手のままでも宣いから早く来いとの意であると解釈されてゐる。奴隷に多く子を生ませることは、労働力を減殺するので主人としては余り好ましくないので、斯くは交際の自由まで奪つてゐたのであらうが、さりとて子を生ませねば次の奴隷が出来ぬので、特に亥ノ子の夜だけ許したものであらう。そして特に此の夜を択んだのは、前にも言うたやうに此の夜は全国的に合衾することが習俗になつてゐたからである。