稲作の豊穣が天父地母の交会による賜と信じてゐただけに、その報賽として執行される秋祭に性的行事が、多分に包含されてゐることは勿論である。即ち斯うすることが神慮に叶ふものだと考へてゐたのである。茨城県北相馬郡文間村大字立木の蛟蜩神社の祭礼は、毎年筑波颪が肌寒く吹き始める十月の十三十四日の両日に行はれる。十三日は宵宮で、十四日が本祭であるが、その際に何の意味か分らぬが神前に供へた蒲団を焼く行事がある。近郷から集つた何千と云ふ参詣者は、その焼灰を少しづつ持つて帰るが、行事が終ると此の祭礼の名物となつてゐる性の解放が公然と展開される。そして此の事は参詣者各自の信仰がら出たことなので、風紀の上からは洵に苦々しいことではあるが、警察でも厳重に取締ることが出来ず、現在でも猖んに行はれてゐる。最近に見聞した人の記述によると「農作物の豊穣を祈る原始的風習の名残りだらうと思ふが、今では女の身体が丈夫になると云つて、女と云ふ女がその夜中誰彼の差別なく肌を許すのである。既婚の女ばかりか未婚の娘までが、良い婚を得られるという迷信から、惜気もなくその肌を未知の男の前に投げ出すのである。女はそれが度数の多いほど余計な幸福を持つと云つている。翌日は近郷一帯に一日休んで男女ともにその疲労を癒やすことになつてゐる。そして此の日を「山洗ひ」と云つて、お山の穢れを浄めるために、吃度、雨が降るのも妙である」と報告されてゐる。東京から汽車で行けば一時間半ほどで達する近い所に、然も昭和の現代に斯うした行事が残つてゐるとは、民俗の永遠性が窺はれて面白い話である。由来、茨城県には筑波山の●(女偏に曜の旁)会と称する、有名なる性の解放祭が存してゐただけに、斯うした祭礼が今に残つてゐるものと見える。鹿島神宮で行はれたと云ふ常陸帯の神事なども、その源流に溯つたならば、或は性の解放と交渉のあつたものかも知れぬ。