秋の刈入れが済むと村民は、その新穀を田ノ神に供へ、自分達も直会に与かつた。これを新嘗祭と称した。そして古代には此の祭の夜に田ノ神が家々を訪れて、その新嘗の饗宴を受けたものである。現代の合理観から云へば、田ノ神が農家を訪れるなどとは腑に落ちぬ事であるが、大昔の人々は決してそれを怪しまなかつたのである。而して此の神の正体、それは詳しく説明するまでもなく、古代の神主は神実であると同時に、神その者であつたと云ふことを知れば、それで自然と合点の往くことと思ふ。今に各地に於いて神を見ると死ぬと云ふ俗信の行はれてゐるのは、即ち神の正体を知らさぬ為めの宣伝である。近年、沖縄県では神を捕へて見たところが、それが自分の母である祝女(内地の巫女と同じやうなもので、神と称して種々なる行事をする)であつたと云ふ報告に接してゐるが、これが祝女で無くして覡男で有るだけが、内地と沖縄との相違である。
斯うして農家を訪れた田ノ神は、新嘗の夜に心に適した婦女があるとそれを近づけた。これが今に各地り残つてゐる祭の折の一夜官女、又は一時女臈の原義なのである。大阪市外歌島村字野里の氏神祭には少女六人が、下髪に白絹の被を着て一夜官女として参籠し、西宮市に近き小松村の岡田神社は古くはおかしの宮と称したが、その理由は祭礼の折に供物を備ふる男一人が、その年に村へ嫁した花嫁の衣裳を着て、此の役を勤めるのであるが、氏子の大勢が此の男の後に随ひ手をたたきながら「一時女臈アアをかし」と囃したので、斯く云うたと伝へられてゐる。併しながら此の一時女臈が古く女性であつたことは言ふまでもなく、且つそれが新嘗の夜に神に召された女性の名残りを留めたものである。平安朝の中頃まで出雲大社の神官や、九州宗像神社の神職が、名を神妻に仮りて猥りに百姓の妻や娘を徴発して朝譴を蒙つたのは、同じ信仰の退化を考へさせるものである。後世になると京都の両本願寺の法主が諸国を巡錫すると、夜のお伽と称して娘を閨房に侍せしめ、斯くすることが名誉でもあり、良縁を得る所以とも信じたのは、その動機に於いては多少の相違あるも、事実にあつては一時女臈と全く同じであつた。そして此の事は神の思召である白羽の矢が家の棟に立つと、その家の娘を人身御供に上げると云ふ伝説になるのであるが、これは問題の柵外に出るので省略する。