秋祭と性的行事との関係を述べるには、序説として猶一言せればならぬことがある。即ち古代の民族は宇宙間のあらゆる事象を××の結果であると信じてゐたのである。換言すれば天を父として地を母とし、此の天父地母の××によつて万物が生れるのであると考へたことである。我国の伊弉諾伊弉冊の二尊が、国土山川草木まで生成したと云ふのも、所詮は此の思想に外ならぬのである。勿論、此の思想は古代民族それ自身等の生殖作用の結果から類推した、極めて幼稚なるものである事は言ふまでも無いが、兎に角に斯う固く信じてゐたことだけは明確である。更に言へば古代の民族は、同じやうな行為は同じやうな結果を生ずるものだと単純に考へて、植物の繁殖も人類のそれのやうに、××の結果によるものだと信じて疑はながつたのである。これが祭儀のうちに取り入れられた類比咒術の神事である。就中、狩猟期に移つた民族にとつては、穀物の生育、繁茂、結実と云ふことが、如何にも不思議に感ぜられた事は、蓋し今人が想像するよりも幾倍の驚異であつたに相違ない。否々、それにも増して不可解でならなかつたことは、既に枯死したと思ふ穀物の種子を、再び地中に下せば又々生育、繁茂、結実の状態を繰り返す点である。此の事実は科学をもたぬ古代民族の眼には、地中における神々の生殖作用に基くものとしか映じなかつたのである。曾て学友ネフスキー氏がら聴いたところによると、氏の故郷である小ロシアでは、五穀の発芽や結実はヤリロ神の生殖行為であると云ふ信仰があつて、現今でも草深い田舎へ往くと、秋にヤリロの葬式と称する祭が行はれる。それは麦藁で××を添へた人形を拵へ、それを小さい棺に入れて基督教の葬礼の真似をして大勢の村民が墓まで送り埋葬する。これが来る年の春までに「母なる土が五穀を孕む」ための咒術であるさうだ。そしてこれに類似した祭儀は我国にも存したと見て差支ない。秋祭と性的行事には先づ此の信仰を知らぬと解釈の出来ぬものが多いのである。これから本問に入る事とする。