我国の最古の法律とも云ふベき大祓に、国津罪として「己が母犯せる罪、己が子犯せる罪、母と子と犯せる罪、子と母と犯せる罪、畜犯せる罪」などを挙げてゐるが、これはその当時にあつては此の種の醜俗陋習が眼に余つたので、かく禁止するやうになつたのであらう。殊に注意すベき点は斯うした母子姦や獣姦を数へてゐながら、どうして同胞婚を逸したかと云ふことである。これは恐らく当時においては此の種の近親婚は、禁止することの出来ぬまでに公行されてゐた為めであらう。古代史の伝ふるところにると、「我が貴族で×を妻とした一例さへある。」
我国の近親婚の実例は夥しきまでに残つてゐるが、古い記録に見えたものから二三を挙げると、源義経が吉野山へ落つる途中、十津川村を遇ぎると、十二三歳の村童が、お互ひに「伯父さん」と言ひ合つてゐるのを耳にして、呟くやうに「怪しからぬ親共である」と言つたのを、お供してゐた弁慶が聴いて、何が怪しからんのか合点が往かず、その夜を考へ明かし、漸く翌朝になつて、始めて「怪しからぬ」正体が判然したと云ふことである。
此の話は、勿論後人が義経と弁慶とに附会したもので、義経は即座に分別したのに反して、弁慶は翌朝まで考へて会得した、両人の智慧の相違はこれほどであると云ふ例にしたものであるが、併し此の事実―お互ひが伯父同士になる縁組(西鶴の本朝桜陰秘事に系譜で示してある)などは決して不思議では無かつたのである。享保年間に書かれた「諸州採棄記」によれば、此の十津川村には女子共有が立派に存してゐたやうであるから、それより五六百年も昔の義経時代には、斯うした家族相婚も珍しいものでは無かつたのである。