性の解放と貞操提供の義務

娼婦制に馴らされた我国古代の『処女』の意義は、現今のそれとは大いに内容を異にしてゐる。即ち人妻であらうが娼婦であらうが、或る定められた物忌だに完全に仕終はせれば、幾度でも処女となり得るものと信じてゐたのである。反言すれば性の復活を信じてゐたのである。我国に古くから「腹は借りもの」と云ふ生物学を無視した思想のあつたのも、更に「操は売つても身は汚さぬ」と云ふ性を二元的に見た思想の存したのも、所詮は性の復活に由来してゐるのである。従つて古代の処女といふ語は、人妻で無いといふ事だけは意味してゐるが、決して童貞を意味してゐたのではない。「万葉集」に未通女を「をとめ」と訓ませて此のをとめに童貞の意を有たせてゐるが、これは奈良朝になつてからのことで、その以前には全く見当らぬことである。否々、奈良朝にあつても「をとめ」の名で売笑を営業としてゐた者さへある。即ち万葉集(巻九)に載つてゐる、上総の末の珠名娘子がそれである。処女たることに絶対的の価値を認めるやうになつたのは後世のことであつて、古代の女子は専ら女淫婦貞の道徳に養はれてゐたのである。

それでは斯うした娼婦制の遣風が、後世の女子の生活の上に、如何なる事象となつて残つてゐたかと云ふに、これには種々なる方面から観察することが出来るのであるが、今はその主なる二三に就いて述べるとする。

古く我国には性の解放される日が定まつてゐた。今に子供の遊戯として各地に行はれてゐる「今日は二十五日お尻の用心御用心」と唱へつつ猥りに尻をまくるのは、曾て我国に此の日に限り男女ともに性的に解放されたことのあるのを、伝へたものであることは既に先輩も論じてゐる(南紀土俗資料)。更に昔は七月十六日に諸国に「つと入り」といふことが行はれた。即ち此の日は知ると知らぬとの別なく、無断で他人の家に闖入して、家宝その他何物でも見ることを許されてゐた。そして此の行事は近古では伊勢の山田が盛んであつたので、山田のつと入りとて俳諧の季題にまでなつてゐたが、それも寛永の頃に泯びて他には越前の敦賀にだけ存してゐたと伝へられしも、これも江戸期の中葉に跡を絶つてしまつた。そして此のつと入りが、此の日に限つて性的に解放された日であつたことは、その見る目的が妻、娘、妾などの女性に重きを置いた点からも知られるとは、斯界の権威である南方熊楠氏の私に語られたところである。更にこれと少しく趣を異にするが、山梨県では古く武田信玄の遺法とて国内に遊女を禁じ、その代償として毎年とも、端午から八朔まで領民の戸締りして寝るを許さず、専ら男女の交際に自由と便宜とを与へた。若し堅く戸締りして若者の出入を拒むときは、打破るも罪とはならなかつた(さへずり草)。又以て此の類例として見ることが出来やうと思ふ。

猶この場合に併せ考ふべきことは、我国の正月と七月の各十六日を、俗に「藪入り」と云うてゐることである。由来、藪入りの語義に就いては昔から異議が多いが、今に定説を見ることの出来ぬ問題である。然るに「倭訊栞」に「金国の俗は、正月十六日は縦に物を盗み、他妻に戯れるも刑を加へずと宋の小説に見えたり、妻女に及ぶは大原の雑魚寝に似たり」と載せてゐるが、我国の藪入りには此の金国の民俗と共通したものがあつたやうに考へられる。その一証として見るべきものは、大分県の××郡の村落では春秋二季の氏神祭の夜に、祭礼が済むと若い男女が語らひをするが、これを藪入りと称し、此の夜だけは総てが許されることである(村の辻を行く)。私は我国の藪入りの夜に、性の解旅される民俗は僅に此の一例しか承知せぬので、余り口綺麗なことは言へぬけれども、斯う考へることの必ずしも無稽だとばかり言へぬやうな気がする。此の点に関しては愛読者の高示に接したいと思うてゐる。

更に性の解放を、日と場所とを限つて行ふ民俗が各地に存してゐた。これも古き娼婦制度の一破片だと考へてゐる。例へば愛媛県上浮穴郡田渡村大字中田渡の新田八幡宮は、毎年旧二月初卯の日に例祭を行ふが、昔は此の祭りの夜に限り、白手拭を被ってゐる婦人は、人妻でも寡婦でも、処女でも、自由に交際することが許され、社地の内外所々で醜態を演じたものである。世にこれを田渡の××市と云うてゐる。土地の者が斯かる蛮習を敢てして怪しまぬは、此の祭神が縁結びの神であつて、かく男女が自由に交際することが、却つて神慮に叶うたものとの迷信から来てゐたのである。明治になつてからは警察署の取締が厳重になり、漸く衰へて同二十一年頃から廃止されてしまつた(社会史研究九ノ六)。静岡県興津町の由井神社では、盛夏の或る日に××祭といふが執行される。祭礼は夜を徹して行はれるが、此の夜だけは祭りに群集する総ての女子は、その既婚と未婚とを問はず、如何なる男子でも交際することが当然とされてゐた。土地の者は年一回の性的解放であると云うてゐる(郷土趣味十二)。これなどは遠き昔に筑波山に行はれた「嬥会」に「人妻に我も交らむ、吾が妻に他も言問へ、此の山を領はく神の始めより禁めぬ事ぞ、今日のみは、目ぐしもな見そ、事も咎むな」とあるそれと全く同工異曲であることが想はれる。

これとは梢々事情を異にしたもので、女子のみが神への報賽として貞操を操供する民俗があつた。福岡県京都郡犀川村の生立八幡宮の例祭は、毎年五月十日十一日の両日に挙げられるが、同社は俚俗に「犀川夜市の石枕」と称して、祈願のある女子は、此の神に願が成就すれば、何回異性に許すと誓ひを立てるので、祭礼の夜には社前の河原で石を枕にごろ寝するので知られてゐる(民族と歴史八ノ六)。そして此の祭礼を目撃した友人南善吉氏の談によると、今も猶「犀の河原で尻つねられて、今にひりひり痛ござる」と俚謡に唄はれるほどで、当夜の亡状が想ひやられるとのことであつた。南氏の此の話から類推すると、此の祭りは他の地方にも存した「尻つねり祭」と同系のものと思れるが、それを言ひ出すと長くなるので略し、更にもう一つだけ貞操提供の民俗を述べるとする。徳島県那賀郡宮浜村の東尾神社の祭礼には、下の病気のある女子は、全快さへしてくれれば何人の男をとると願込めし、癒えたる者は祭りの夜に参詣して願解きをする。それを行ふ女子は、誰にでも分るやうに、腰に白地の手拭を挟んで目印とする。それで腰の手拭を目当に言ひ寄れは、誰彼の差別なく神に誓つただけの男に許す。それ故に嫉妬深い夫は妻の後につき纏ひ争論することすらある。此の事は明治二十三年頃までは猖んに行はれたが、今では全く昔話となつてしまつた(社会史研究九ノ六)。更に一段と露骨なる貞操提供は大分県臼杵町の近村に行はれた八月×日のばばツででで祭これは祭りの夜になると、その村の総ての婦女子は、必ず三人の男子と関係せねばならぬ義務が掟となっていた。それが為めに若くて美しい女は掟通りの義務を容易に果す事が出来るも、老いて醜き女は一人の男すら得られずして、夜を明かしてしまふやうな寂しい喜劇が繰返されたと云うことである(郷土趣味十二)。島根県那賀郡浜田町地方の某村にも、これと同じやうな行事が存してゐた。それは氏神の秋祭りの宵宮に、その年に始めて通経のあつた娘達は、神様のお取持と称して、男子に許すことになつてゐたが、今は全く泯びてしまつたと云ふことである(同上)。そして斯かる民俗の起原が、その始めに於いては、単なる神への報賽では無くして、娼婦制のそれに発生してゐることは、私が改めて言ふを要せぬほど明白である。