貸妻の民俗は、殆ど世界的に行はれた陋習である。先年、田口卯吉翁がシャムに旅行し、王室の賓客として待遇されたが、その夜に一名の美姫が翁の寝所に忍び込み、大に驚いたので理由を訊くと、国王が友情の極致を示すために、侍妾を遣はされた─即ち貸妻の風習であると答へたと云ふ話を聴いたことがある。併しながら貸妻の理由を友情の発露とのみ解釈するのは、決して正鵠を得たものではなくして、これは外来者を歓待した古俗に負ふところが多いのである。
それでは古代にあつては、何故に何処の馬の骨とも知れぬ外来者を、それ程までに歓待し優遇したかと云ふに、これには段々と説明しなければならぬ理由が存してゐるのである。
先づこれを我国だけに就いて言ふも、古代人は外来者に対して、一面非常なる恐怖の念を以て迎へると同時に、一面これを珍客として待つたのである。前者は即ち外来者は何を仕出すかも知れぬと考へたからで、後者は我国の神なるものが、往々巡り神として、外来者の姿をかりて、降臨したからである。此の事象は更に詳述せぬと、或は読者に会得されぬかも知れぬが、茲には姑らく預るとして筆をすすめる。そして斯うした恐れと親しみと錯綜した念慮を以て外来者に接した古代人は、その恐れを弱めるため─即ち外来者の荒ぶることを和める手段として、更に親しみの実際を示す方法として自己の妻女を貸与し、又は女子を提供する民俗を生ずるやうになつたのである。二三年前に長崎県の五島へ旅行した、学友橋浦泰雄氏の報告によると、同地では一般に外来者を悦ばぬ気風を存してゐるが、これは若し外来者に娘なり妻なりを貸せと言はれると、これを拒絶することが出来ぬやうに習慣づけられてゐるためだと云ふことであつた。此の一事は、同地の古き貸妻の習慣に対する、新しき感情の動きを示してゐるものである。
全体、我国の采女制度なるものは、韓国の官妓制度と多くの類似性を有してゐるが、これが最初の目的は蕃客功臣に対する貸妻に由来するものと信ずべき点がある。そして「孝徳紀」に『凡そ采女は、郡の小領以上の姉妹、及び子女の形容端正なる者を貢つれ』とあつて、その人員も決して尠くなく、且つ内地はかりでなく外蕃の百済からも貢進した例もある。采女は後世になると、悉く後宮の雑役に服するやうになつたが、これが古い枕子(此の事は既に述べた)の伝統に属し、専ら神に仕へたものである。「允恭」に新羅の使者の和語に疎いところから畝火耳成を宇泥咩瀰々と訛つたのを、倭飼部が聴きかぢつて采女に通じたものと速断して密告したので、使者が公問された事件が載せてあるが、これは又以て蕃客と采女との関係を知るべき手掛りとなる。此の記事は蕃客と采女との関係を不義として取扱つてゐるが、この一事は偶々この采女に限つて神寵が特に深かつたので、かかる事件を惹き起したまでであつて、他に不義ならぬ蕃客と采女との多くの交渉のあつたことが想像されるのである。「万葉集」に藤原鎌足が、采女安見児を娶たる時に悦びと誇りの余り「吾はもや安見児得たり人皆の、得難にすとふ安見児得たり」と歌つてゐるのは、私の考へを裏附けるものがあるやうに信ずる。
沖縄県の与那国では明治以前は、内地から渡航した士族(概して薩藩の武士)が、土地の女子を妻にすると、その妻女は良人の親族にも許さなければならぬ義務があつた。そして此事は久しい間に習慣となり明治の初年に赴任した官吏の間にも行はれてゐた(南島探険)、此の事象は直に純粋なる貸妻と見ることは出来ぬとしても、それが貸妻の古俗に原因を発してるることだけは疑ひない。これに較べると因幡、伯耆の各地方で行はれた民俗のうちに、他地方から来た旅客に対して、好んで既婚婦人が枕席に侍したのは(郷土趣味十二)、全く貸妻の遺風が残つてゐたためである。
明治維新頃までは、両本願寺の法主が各地を巡錫すると篤信の父兄は子女を法主の閨房に送り、これを「お手附」と称して、郷党に誇る習慣のあつたことは、誰でも知つてゐるほどの有名な話であるが、これは言ふまでもなく単純なる女子提供ではなくして、一種の迷信が伴うてゐることは明白である。然るにこれと類を同じくして、然もこれ程の迷信の伴はぬ民俗が他に存してゐる。即ち長崎県の天草島は娘子軍の産地として著名の地であるが、此処では遠来の客があると、普通良家の女子が自ら進んで歓待する。かくすれば早く良縁が得らるると信じてゐる(同上)。そして徳島県那賀郡沢谷村字北谷に残つてゐる民俗こそ、純然たる貸妻と女子提供との二つを意味してゐるものとして考ふべき資料である。即ち同地は郵便局へ五里、村役播へ三里牛もある山中の僻村であるが、ここには勿論旅館などのあらう筈もなく、旅行者は普通の民家に泊めてもらふが、その折に宿の主人は旅客に娘(又は妻)を添寝させるのを習慣としてゐる。そして若し旅客が悪戯をしたり又は女に振られるやうな事があると、女達は大声あげて「出戻りさんだ」と叫ぶ。すると親や夫が出て来て、旅客を夜中でも追ひ出してしまふ。斯うされた「出戻りさん」なる者は、最早その村では泊まるべき宿を失ひ、雨の時でも雪の折でも、悄然として立ち去らればならぬと云ふことである(週刊朝日九の卅二)。前に挙げたS氏の牛堀における事実は、要するに此の民俗が昔のままで残つてゐたに過ぎぬのである。
現今では蓮葉女といへば、単なるお転婆女の別名か、若くは不身持女の異称位にしか用ゐられてゐぬが、昔大阪の商家に抱へられてゐた蓮葉女の正体は、決してかかる意味の者ではなく、西鶴の「一代男」に「難波の浦は日本第一の大湊にして、諸国の商人ここに集り、又上問屋下問屋数を知らず、客馳走のために蓮葉女といふ者を拵へ置きぬ。これは飯焚女の見よげなるが、下に薄絹の小袖、上に紺染の無紋に黒き大幅帯、赤前垂吹贅に京笄、伽羅の油に固めて細緒の雪駄、延べの鼻紙を見せかけ、その身持それとは隠れなし。随分、面の皮厚くして人中を怖れず、尻据ゑてちよこちよこ歩き、びらしやらするが故に、此の名を付けぬ」とあるやうに、専ら来客接待用の婦人であつて、その遠い源流が貸妻又は女子提供の民俗と、同じものの派生であることが知られるのである。