宗教的売女と女子の性的生活

斯うして一度神に占められた女子が、その神の手を脱がれるには、凡そ三つの方法があつた。第一は神寵が衰へて棄てられること、第二は自ら神戒に叛いて去られること、第三は一種の贖罪として幾人かの男性に許すと云ふことであつた。そして第一と第二とは概して巫娼となつて、情海の一角に生活の避難所を求めるやうになり、それが軈て我国の売笑婦の先駆となつたのである。これに反して第三の贖罪としての行為は、別に宗教的売笑の名を以て伝へられてゐるが、殊に有名なのは常陸の筑波山及びその他で行はれた嬥会、これと内容を同じくした歌垣、おづめ等である。是等の詳細に就いては天下周知の事と思ふので、茲に深く言ふことは差控へるが、筑波山の嬥会に「聘財を得ざる者は児女と為さず」とあるのは、宗教的売笑の贖罪に起つたことを示唆してゐる。更に「梁塵秘抄」に、

住吉四所のお前には

顔よき女体ぞおはします

男は誰ぞと尋ぬれば

松ヶ崎なるすき男

とあるのは、同じく此の関係を詠じたものと考へられる。そして「拾遺往生伝」巻下に載せてある、左の記事に至つては、全く宗教的売笑の標本とも思はれるのである。曰く、

陸奧国に一女あり、人となり艶にして色を好む。定まれる夫なく、衆人共に来るも、敢てこれを厭はず、皆以て許容す(中略)。親人あり由緒を問ふ。答て曰く、我れ聞く、人情これ菩薩、これに依つて男の来たるを返さず。又聞く愛慾これ流転の業、これに依つて交会の時(中略)。指を弾じ眼を合せ不浄を観る云々(続群書類従本。原漢文意訳)。

此の女子の云ふことは、いやに仏教臭くなつてゐるが、斯うした民俗が仏教から出やうとは信じられないので、それが我が古俗であつた娼婦制度の遺風であることは、別に説明せずとも点頭けることである。

宗教的売笑が退化すれば、それは単純なる売笑となるのであるが、その境目は極めて微妙であつて、殆ど両者を完全に区別することは困難である。そして我国の売笑婦は古代に溯るほど神の巫女であり、巫娼であつたので、社会的の地位は寧る一般の女子よりは、高尚なる者として待遇されてゐたのである。売笑婦が不道徳者として、更に劣等なる醜業者として蔑視されるやうになつたのは、迥に時代の降つた平安朝以後のことである。「万葉集」に現はれた遊行婦は、日並の神子と席を同じうし、「古今集」に載つた遊女は、高貴の前へも召されてるる。神に祀られた遊女、仏に崇められた娼婦、それ等の人物も亦決して尠くない。古代の我国にあつては、全国の処女は悉く、一面巫女であつたと同時に、一面娼婦であつたとも言へるのである。そして此の遺風とも見るべき民俗は、近年まで各地に存してゐたのである。例へば山形県西田川郡温海村大字温海辺の村々では、昔は富める者も貧しき者も、町人は総て娘を持ちたる限り、遊びくぐつに遺るを習とし、之を「浜のをば」と称したと「鰐田の刈寝」に載せてある。新潟県は大昔から遊女の大量製産地として聞えてゐるが、遊女に出すことを行儀見習に遺る位にしか考へてゐなかつた。同じ新潟県佐渡郡小木港は、佐渡芸妓の本場であるが、女子が生れると千両儲けたと云ひ、明治の中頃までは、どんな上流の家庭でも、女子は必ず嫁入り前の修業として、幾年間かを芸妓をさしたものである(民俗芸術三ノ八)。明治三十九年に伊豆の下田港へ旅行した見聞記によると、同地には百三十七人の酌婦がゐて、一時間三十五銭で酒席に侍した。同港では此の外に良家の娘が殆ど悉く酌婦の代用者であつて、此の勤めをせねば一人前の女になれぬと、親達も認め娘達も信じてゐたとある(新小説十一ノ二)。三重県志摩郡的矢村は、昔は大阪江戸間の船着場であり避難所でもあり、頗る繁昌を極めた土地であつた。従つて入船があると女と名の付く者は、殆ど悉く船客船員の枕席に侍した。古い俚謠に「的矢港や女郎ヶ島、チヨロ(娼婦の乗つて往く艀のこと)は冥途の渡し船、しに行く人を乗せて消ぐ」とあるやうに、全港の女子は挙げて娼婦の営みをした(性之研究)。和歌山県東牟婁県勝浦港は、昔から淫奔の地で、漁師の妻や娘は売笑するのを誇りとし、女のミサホとはどんなサホだらうと奇問を発して、巡廻の県庁の役人を驚かした事があると云ふ(南方熊楠氏談)。長崎県平戸町に近い田助浦は漁村であるが、此の地の娘は概ね娼妓の鑑札を受けてゐて、需めに応じて貸座敷に赴き客に接するが、平生は家にゐて働いてゐる(週刊朝日九ノ廿三)。斯うした類例は詮索したら、まだ各地に渉り幾らでもあることと思ふが、大概にして省略する。そして良家の婦女が斯かる不倫を敢てして恥とせぬのは、それが遠い娼婦制に由来してゐるためである。猶これを証拠立てるには、貸妻と蓮葉女との民俗に徴するのが、最も捷径だと考へてゐる。