神に占められる女と初夜売

我国の上代にあつては、神々に仕へる者は全く女子に限られてゐた。古歌に「東には女は無きか男巫、さればや神も男にぞ憑く」とあるのは、即ち此の意味を詠じたものである。それと同時に我が上代においては、男子は概ね神として崇められる機能を有し、女子は一般に巫女として、是等の神に仕へるのを任務としたのである。今に妻女のことを下世話に「山の神」と言ふのは、職業的の神主が生れぬ以前に’家族的の神主として、家の神に仕へた古称を残してゐるものである。それであるから我国の女子は、神と結婚するのを原則とし、人と結婚するのは却つて例外であつた。従つて何時でも神に占められるだけの用意をしてゐたのである。古歌に「玉かつら実ならぬ樹には千早振る、神ぞ憑くちうならぬ樹毎に」とあるのは、女を樹とし神を男として始めて歌意が釈然するのである。「源氏物語」を売んで見ても、その頃の女子は身分の高い者ほど、実際は人妻となつてゐても、結婦式を挙げぬのが習礼であつた。これは何時神に占められても差支ないと云ふ用意に外ならぬ。我国で神への人身御供の標として、その女子の家の棟へ白羽の箭が立つと云ふのは、女子が神に占められる手続なのである。

斯うして神が女子を占めることが、我国では平安朝の初期まで行はれてゐた。延暦十七年の官符で、出雲大社の神主と筑前宗像社の神主とが、神事に托して百姓の女子を多く娶り妾にすることを禁止したのは、即ち此の事象を指したものである。それであるから我国の上代にあつては、女子に対する初夜権は、全く神の手に握られてゐたのである。その一例として左の民俗を挙げることが出来る。

長崎県北松浦郡平戸村字稗田の郷社緑岡神社の神体は、石製の元根(長さ95cm)である。そして此の神に対する土俗の信仰の特異なることは、処女(純真な処女に限る)は縁談が整ひ愈々結婚挙式の前夜に、世人の目を遁るるために特に深更を選んで、密かに母親(母親なき者は姉叔母など肉親の既婚婦人)に伴はれて神殿に詣で、婦後の幸福と良児の授胎とを祈願する。予め通知を受けた神官は、白装束でこれに立会ひ、厳に同様の祈祷を捧げる。次に神官は奧殿石の祠の扉を開き、恭々しく神体を捧持し来つて先づこれ母親に授ける。母親は一揖してこれを受け、更にこれを娘に渡す。娘は拝授して座せるまま××を××、××の××を×が××に当てる。次いで前の儀式は進行せられ、神体は奥殿内に納められる。この間神前の燈火は滅せられ、又一語の発することを許されない。総て暗中黙々の間に式は進行する。処女でない娘は、此の壮厳にして意味深き、結婚の序式を挙げることを憚らねばならぬ(以上。人類学雑誌四十二ノ二、摘要)。

此の神事が古く神によつて初夜権が行使された、遺風であることは言ふまでもない。そして斯うした民俗に行はれてゐたのである。元禄頃に古川古松軒が奧州を旅行した折に、金精神と称する神体を売の鎖で厳重に縛りつけて置く村があるので、余りの不思議さにその訳を訊ねたところ、此の神体は氏子の娘が十三、四歳になると、夜分来つて犯すので、それを防ぐために縛つて置くのだと答へたが、神体は高さ三寸許りの木製の元根であつた(東東雑記巻四)。然るに神が行うた初夜権も、時勢の暢達につれて神に代つて民衆を支配すべき勢力家に移された。「高橋氏文」に勢力家が関東地方を旅行せられた折に「東方の諸国造十二氏の枕子、各々一人づつ進りき」とあるのや、「允恭紀」七年の条に、当時身分ある者の宴会の折に「座長」を勤めた者は、処女を請求すべき権利が与へられてゐたことや、更に「本朝文粹」にある三善清行の十二封事を読むと、節会の折の舞姫は必ず処女に限られてゐたが、是等は共に初夜権の伴うてゐたことが看取されるのである。

そして此の事象は、時代の降るにつれて幾つかに分化して、第一は結婚の際における若者、又は媒酌人の股の権利となり、第二は神を祭る夜における性的行事となり、第三は娘を女にする民俗として近年まで存してゐた。爰に是等の詳細を記述する事は不可能であるが、最近に学友中道等氏の厚意によつて借覧した、曾て青森県庁の所蔵であつた左の文書は、よく女子共有の古俗と娼婦制の存在とに触れるところがあるので載せるとした。

中道等氏所蔵文書

元南部領七戸通三沢村と申所、風俗今以旧染不宜儀は、此村に限り、男女婚姻の期に致り、媒の者嫁女を夫家へ連れ行き、婚姻の夜は夫婦同席和淫の礼を不為致、媒の男右嫁女を妻同様に寝席致、其翌夜より真の夫婦同席供寝為致侯由、是を名附て口取ト云、同元田名部通の内海浜字トマリと申所、併其近辺大底は男女に若者頭と申者撰立、婦人生て十四五歳、既に女道を知るの年頃に至侯折は、是を通称してメラシと唱へ、村中に女部屋と申所儲け置き、是へ夜分に至れば右メラシ共連レ行、淫奔自在此処旧染にして、婦の両親と雖も之を禁ずる事不能、若此村へ他郷より若き男あり入来て、此村の婦人と恋交する時は、譬男女共示談和淫と雖も地風と号、其男を捕へ村中の若者共打寄り打擲、或は海中に之を没す杯、傍若無人の所業見に不忍由、当時年長方侯共、左記の人員若年の頃、彼の若年頭と云ふ者にてありしといふ伝有之侯、御含の為申上侯、以上(原文のまま)

トマリ元若者頭

平野作平

四十位

前同断

柿崎富弥

但三沢村口トリ田名部の女ゴベヤ右事件は先達て申上侯七戸町の高橋元吉と申者御等被遊侯得者明細の事。

右の通

明治七年第三月廿八日

そして爰に口取とは、即ち初夜権の民俗化であって、周防馬島における「村の娘をワル権利」と同じもので、これも近年まで福島県石城郡四ッ倉地方の村落に存した「ワリ頭」と、全く同じものなのである。