玉代を要せぬ売女もある

私の友人にS氏と云ふがある。明治三十二年の秋の初めに商用で茨城県へ旅行し、土浦から鉾田行の汽船に乗つたが、船の故障で夜に入り牛堀(潮来の一つ手前の船着場)で上げられてしまつた。

始めての土地ではあるし、殊に夜のこと、勝手が分らぬので困つてゐると、若い婦人が来て馴々しく、

『お客さん、今夜は私の処へお泊りなさい」と親切に言つてくれる。

S氏は、旅籠屋の客引女と早合点して、言はれるままに、その婦人の家に伴はれた。見ると普通の民家であつて、一向に旅籠屋らしくもなく、不思議だとは思つたが、外に泊る処もないので、その家の閾を跨いだ。すると案内した婦人が、

「お母さん、お客さまをお連れ申したよ」と言葉をかけると、奧の方から、

「それは宜いことをした。早くお上げ申しな」と言ひながら老母が出て来た。

そして二人して晩飯の仕度やら、寝所の世話までしてくれたが、此の若い婦人こそ玉代をかかう売女であった。S氏は私に此の事を話した折に「土地の慣習か、それとも婦人の宿願か、今に解せぬ不思議だ」と言ひ添へるのであつた。

売買といふことを常識的に考へれば、金銭の授受が要件となつてゐるのは勿論であつて、此の反対に金銭の授受の無い売買は成立せぬことになるのであるが、併しながら他の売買は姑らく措き、売女に玉代の伴はぬ民俗は、我国としても決して珍しい事ではないのである。今から八十年ほど前の嘉永五年に、秋田県の民俗を書いた「絹飾」巻三羽後国南秋田郡戸賀村の条に、

舟かかりの澗あり、この所菰被りとて秘売女あり、代銭いらず

と明記してある。

それでは、此の菰被りなる秘売女は、如何にして客を迎へたかと云ふに、文化七年五月に記した雪江真澄翁の「小鹿の鈴風」に左の如く載せてある。

此の戸賀の浦に町大船小船の集ひ入て、泊する浦屋形なれば、くぐつのひとりふたりはありつ。数多の舟の入り来るころは、老たる若きのけじもなう問屋、海防に入来て、泊する船客等が丸寝して待つに、家にありとある燈を消ちて、皆しじまに、うば玉のやみのうつつに探りより、やがて男のふとこるに身をまかせぬれど、男も女もさらに顔見る事のあたはねば、舟人どもは、ただ酌子果報とて一夜のかたらひぞせりける。鶏のかけろと鳴けば、皆ひそひそと別れて、友の乙女も誰といふ事はしらず、知れるは屋戸の戸自ばかりにこそあなれ。是を菰被りと云ふとなん(秋田叢書別集本)。

それでは、斯うした玉代を要さぬ売女は、茨城や秋田に限つて行はれてゐたものかと云ふに、これは決してさる狭い地域に限つたものではなく、古くは我国の全部に亘つて広く行はれてゐて、然も此の民俗が歳月の流れと共に変化して、或は処女の提供となり、或は貸妻の民俗となり、更に蓮葉女の由来となるなど、種々なる社会事象となつたのである。私はこれから此の民俗の起原に就いて考証し、併せて娼婦制を中心として諸般の社会事象を考究して見たいと思ふ。