我国の古墳に立てた埴輪土偶から、往々にして男女の局部を具へたものが発掘される。稀には此の部分を殊更に誇示してゐるものさへある。それでは斯うした土偶を墳墓に立てた古代の人々は、如何なる考へでかかる事を敢てしたかと云ふに、私の信ずるところでは、凡そ二つの目的が在ったことが想像される。即ち第一は男女の性器に呪力を認め、これを露出したものを墳墓に立てて、凶癘の襲ひ来ることを防ぎ、死者が永く安らかなる霊界の生活の出来るやうにとの信仰から。第二は死者の霊魂の復活を信じた為めであらうと考へたいのである。勿論、墳墓または棺内にこれに類した器具や春画などを納める民俗は、支那にも朝鮮にも存してゐて、独り我国ばかりでなく、更に大きく云へば殆んど世界に遍在したものとも言へるのである。我国の古墳から全く言ひ合したやうに、漢鏡または和鏡の副葬を見るのは、死者の霊界における生活に便する思想もあるが、それと同時に鏡が避邪の呪具として役立つことを考慮した結果なのである。我国で古く墓地のことを鏡山と云うたのも、此の事に由来してゐるのである。例へば「豊前風土記」の逸文にある田河郡の鏡山の故事なども、気長足姫が御鏡を山上に置きしに、その鏡が化石したので斯く称したとあるが、これは山頂の古墳から古鏡を発掘したことに、後世から附会したので、その地が大昔から墓地であったことを明白に物語ってゐるのである。そして、斯うした類例は他に相当に存してゐるが省略し、ただ此の機会に一言することは、長野県の姥捨山の由来である。世人は此の事を老女を捨てたやうに考へてゐるやうだが、これも古くは墓地の意であって、昔は死者を船型の棺に納めて埋めたので、墓地を湊に見立て、これを小泊瀬(今の奈良県の初瀬もそれである)と云うた。即ち此の小泊瀬が訛って姥捨になったので、此の地が墓地であったことは疑ひない。
沖縄県では墓地に大金を投じて宏壮に築造し、これを抵当にして金を借りるほどの財産としてゐるが、此の亀墓(上から見ると亀のやうなので斯く称す)は女子の陰相を象徴したものたと聴いてゐる。更に北海道に住むアイヌ人の墓標は、男女とも性器を意味したものだと聴いてゐる。斯うして、我国の北と南に死者の復活を信じた墓相の在るのを耳にしながらも、内地には古い埴輪土偶よりほかに見ることの出来なかったのを物足らず思うてゐたところ、先年、鳥居龍蔵氏が遠江国で発見した古墳(同氏著の諏訪史巻一所載)こそは、少しく破損してゐるやうではあるが、全く女子の陰相に似せて造ったものであることが、明確に推知することが出来るのである。それから松岡調の「陰名考」と云ふ書物に、「畝傍の御陵に詣でし折、安寧陵を××と申せるにつきて、其地を見むとて(中略)、谷くぼありて、全く人の股ぐらの形なり」云々とあるさうだ(旅と郷土郷土一ノ四)。勿論、此の二例たけで説を試みることは、頗る大胆なことであるが、古く我国にも祭地を陰相の形に造ったことは、ここに納められる死者も、やがて再び産道を出て復活すると云ふ信仰の在ったことを証明されるものと思ふ。瀧本二郎氏は曾て陰相と墓地との関係に就いて「古代の諸宗教は、主として自然現象たる性欲の説明であったから、自然界の数多の事物は此の宗教思想によって説明されたのである。例を挙げて云へばギリシヤ及びローマでは、オセアナスは父、ガエアは母、河川はその子供であって、洞窟は子宮の表章、塋の入口はヨニの表章であった。アジアの或る北方地方では、寺院の聴衆席は女性たる事を表章するために橢園とせられ、而して尖閣を以て男性を表章した。また各種の箱船もしくは櫃は、女性を表示するものとせられた。数多の洞窟が神聖だとされしは、古代においてばかりでなく、此の習慣は今日でも尚相当に広く行はれるし、これはただ偶像国たるアジア諸国のみに止まらず、基督国においても屡々見るのである」と述べ(宗教と性)、そして、女性の性器が復活を意味する、生命の門であることを考証してゐる。たた我国にはこれに該当すべき資料が多く発見されてゐぬので、これ以上に言ふことは差控へねばならぬが、既に三例だけでも学界に報告され、更に沖縄や北海道にもその類例があるとすれば、必ずや近いうちに此の問題を解決すべき資料も出て来ることと思ふ。私はその日の余りに遠くないことを信ずるものである。