誕生水の俗信は何故に起つたか

大正六年の夏であった。当時、露国から留学してゐたネフスキー氏と連立って、茨城県の安寺持方へ旅行した帰途に、栃木県の馬頭町ヘ一泊した。その折に聴いた話であるが、此の町の近くに薬師ノ湯と云ふがあり、その湯の水は婦人の陰相をした岩の間から流れ出るので、殊に効験があるとて四方から入浴に来るとのことであった。そして、此の話は第一に性器崇拝を、第二に岩窟崇拝を、第三に誕生水の俗信とを知る上に、有力なる暗示を与へてゐると考へた。性器崇拝のことは、余りにも知られてゐるので、今は言ふことを略すとするが、現に、東京市内などにも、斯うした石や樹を崇拝することを、耳にし目にするのである。岩窟にあっても亦その通りで、往々にして其の形が牝部を連想させ、又は窟内に婦人の乳房に似たるやうな岩が下ってゐるので、これを性器の象徴の如く考へて崇拝するやうになったのである。それと同時に此の崇拝に就いて参考しなければならぬことは、古代にあっては、屍体を岩窟内に葬った民俗の在った点である。これに関しては猶後にやや詳しく述べる考へであるが、兎に角女性礼讃の一派生として、岩窟崇拝の起ったことは注意すべき点である。そして誕生水の俗信とは、岩窟または樹下などから流れ出る水を、婦人が子を産むときに排出する羊水と連想を繋ぎ、それを崇拝するのに外ならぬが、これにも神や貴種が、斯うした場所で誕生したと云ふ伝承を、背景としてゐることは言ふまでもない。例へば兵庫県加西郡鎮岩村の熊野権現のある所は、酒見明神の降誕した地と云ひ、産水として紀州の熊野から潮水がさしたとて、今に潮の出る場所がある。福岡県御笠郡竃門山の東に岩穴がって、天然の清水が湧いてゐる。大昔に天ノ神が産れた折に此の水を産湯に用ゐたと伝へ、また八幡神が糟屋郡の宇弥村で降誕したまひし時にも、此の水を汲んで産湯とせられたと云ひ、諸人が此の水に影を映すと、老顔も壮者の如く見えるので、世に益影の井と称してゐる。そして此の益影の伝承は、我国の古代における若水の俗信と交渉を有してゐるので、説明が多岐に亘るも少しく附記したいと思ふ。我国では月神の持ってゐる水を飲むと、老人でも壮者に若返ると云ふ俗信があった。これを変若水(オチミズ)と称してゐた。「万葉集」巻十三に「天橋も長くもがな、高山も高くもがな、月夜見の持たる変若水、い取り来て君に奉りて、越えむ年はも」とあるのは、即ち此の俗信を詠むだもので、今に正月の元朝に若水を汲んで祝ふのは、此の俗信から来てゐるのである。斯うして水に霊妙の作用を認めた古代の民族は、此の反対に水に自分の姿を映して見て、若し影が映らぬときは死亡するか、又は災難があると信じてゐた。各地の神社や仏刹に姿見ノ井と称するものがあるは、此の俗信の名残りをとどめたものである。益影ノ井の伝承は此の俗信を知るとき、初めて其由来が明白になるのである。猶ほ筆路を元へ戻して誕生水を書きつづける。宮崎県児湯郡妻町の都万神社は木花開耶姫を祀ってあるが、此の社の近くにある児湯ノ池は、姫神が御子を産みたまひし時に産湯とせられたので、今に郡名を児湯と称するのだと伝へてゐる。愛媛県温泉郡別府村の福水明神の社伝によると、気長足姫が征韓の帰途に九州で皇子が降誕あり、大和へ還啓する際に、御船を此の地に寄せ、上陸して水を汲み湯に沸かし皇子を浴したまうたので、里人が其処に祠を建て福水明神と称したとある。後に藤原為時の妻が子無きを悲しみ、此の社地の砂をもって臥床の下に撒き、妊娠して有名なる紫式部を儲けたと云ふことである。そして受胎に社地の砂を撒く俗信は、今に各地に残ってゐて、更に之が変じて浅草観音堂のお砂─これを家の囲りに撒けば、商売が盛になり災厄を払ふとまでなったのであるが、それを言ふと本問の柵外に出るので省略に従ふとする。