男子がお産の真似をするは何故か

我国に古く母系制度のあつたことは、諸方面から証拠立てることが出来る。言語学的に見るとき、母父、妹背、女夫の如く、両性を言ひ現はす場合に、概して女性が男性に先だって居ることは、その一証である。更に女子相続とて、男子が在っても女子にのみ相続権を認めたことも、又これが一証として数へる事が出来る。そして、擬娩とて男子が分娩の真似をする民俗の我国に存したことは、母系制度の存した事を、最も有力に証拠立てるものである。何となれば擬娩なるものは、母系制度から父系制度へ移る、過渡期に発生した民俗だと云はれてゐるからである。

母系制度は一面に乱婚制度を伴うてゐる。部落に在る女性は、挙げて部落に属する男子の妻であった時代において、生れた子供が確に自分の子供であると主張し得る者は、女性だけであって、男子はその資格が無かったのである。勿論、古代の民族でも、生殖は女性ばかりでは行はれず、男子の力の加はることは、禽獣の生殖行為を目撃した知識からも、知ってゐた筈であるが、乱婚期にあつては、元より其父を判定する事は出来ぬ。併しながら此の時代に於ても、母は子を胎内に宿して、分娩する事実には相違が無かったのであるから、産んだ子を我ものと言張る権利は、母親しか無かったので、子供は悉く母親に属してゐて、父親は子供に対しては、何等の発言権を有してゐなかったのである。それが段々と文化が暢達して来て、母系制度が衰へて父系制度が起るやうになり、これまで母親の所有であった子供を、父親の所有に移すやうになり、此の儀式として発明されたのが、此の擬娩の民俗である。

太平洋請島に住む蕃人の間には、此の民俗が近年まで行はれてゐて、然もその方法は、妻が産んだ子を夫が取り、その跨間から落すと云ふやうな、原始的な儀式が行はれたとのことであるが、我国ではこれに反して、此の民俗が泯びてから、長い年月を経てゐるために、さうした儀式が在ったか否かさへ判然せぬ。然しながら私の故郷である栃木県足利郡の村々で、私が子供の頃まで行はれてゐた、出産に関する民俗は、古い擬娩のそれを想ひ起させる手掛りになると信じてゐる。そして、その民俗は如何なる方法で行はれるかと云へば、妻女が産気を催して産褥に就くと、その亭主は臼を背負うて分娩の済むまで、幾回となく家の周りを廻らなければならなかったのである。それ故に私の郷里では、古老の者が村の子供達を拉へて、『お前の母親はお産が軽いから、父親が臼を背負って三回めぐる聞に産れた」とか、又は「お前の母親は産癖が悪いので、父親が臼を背負って十七回家をめぐり、それでも産れず医者が来て引ッ張り出したのだ」などと言うて、揶揄したものである。そして、斯うした古い民俗は、明治期の文化の発達と共に、夙に跡形もなく泯びてしまったものだと考へてゐたのに、二三年前に帰郷した折り聴いたところによると、まだ稀には斯うする亭主があるとのことであった。更に長崎県の天草島では、妻が産褥に入り陣痛が起ると、夫は急いで雪隠に入り、出産の終るまで、怒責んでゐなけれはならぬ民俗のあることを耳にした。これも私の郷里のそれと同じく、元は擬娩の儀式から出たものだと考へられる。曲亭馬琴の書いた「夢想兵衛物語」によると、夢想兵衛が擬娩の行はれる土地に往き、男子が出産の真似をして苦しむところが詳細に記述してある。これは馬琴の空想の産物か、それとも斯うした民俗の在ることを聴いて書いたものか、その点が判然せぬが、兎に角に斯うした民俗が、我国の古代にも在ったことは事実である。文那でも唐の玄宗帝が、安禄山を楊貴妃の養子にするとき、錦の楓褓を拵へて取り揚げたと云ふことが「唐書」に載せてある。これは玄宗帝の一時の思ひつきか知らぬが、それが擬娩と同じ思想の現はれであることは、不思議な一致であるとも云へるのである。